Archive for the ‘心の健康’ Category

『パディントン2』はおもしろい。

2019.12.26

『パディントン2』を観ました。
ストーリーはお約束で、可愛い小熊が奮闘する映画ですが、最後は泣いちゃいます。
劇中、パディントンを住まわせている家のお父さんが「彼は誰にでも親切で、どんな人にも良いところを見つける」と言ってたのが印象的でした。
そして、誰もがパディントンの無実を晴らそうと、協力します。
 
「彼が良い人(熊)だから、周囲の人が協力する」という因果関係はないんですよね。
けれど、悪い奴に協力する因果関係はさらにないわけです。
大事なのは、パディントンが、見返りを求めずに、いつも親切をしていたということだけです。
それがドジっちゃうことになったとしても、親切心を働くというおばさんの教えが変わることはありません。
そして、ストーリーの中心も、そんなおばさんに親切したいという想いから始まりました。
 
とても好きな映画だなぁ。
ちょっとのかけ違いで、心細くなってしまうこともあるけれど、こういう人(熊)に報われて欲しいって思うんです。
親切を働く人が損をするなんて間違っています。
世の中は、そういう風に動いてしまうこともあるけれど、やっぱりね、親切を与える人(熊)は、幸せになって欲しいんです。
映画のように、改心することはないかもしれないけれど、それでも、影響はあるんじゃないかと信じていたいです。
 
今年、『GIVE & TAKE』という本を読んで、とても大きな気づきがあったけれど、パディントンも与える人(熊)なんですよね。
与えるって、人を動かすんだよな。

何でもない絵の大切さ。

2019.12.23

なぜ、病院に何でもない絵が必ず飾ってあるのか?
それは、何でもない絵だからだ。
真っ白な壁を眺めていると、見えないものが見えている人になってしまう。
何でもない絵は、どんな状態の人においても、視線を置きやすい。
だから、弱っている人が来る場所には、視線の置き場となるものがあると助かるのだ。
裸婦像でもダメだし、抽象画でもダメ。
肖像画もダメだし、達筆な書でもダメ。
子供の絵でもダメ。
何でもないから、いいんだ。
そういう絵が描ける人を、世の中はもっと大切にした方がいい。

これは絵だけではなく、たくさんのことに言える。
だが、下手な人が言い訳として使ってしまうから、言えなくなってしまうのだ。
だから、皆、自分がどれだけ凄いか、どれだけ立派なことをしているかの貢献度自慢になる。
実際は大したこともないのに、だ。

もっと、世の中は、何でもない絵を描ける人を、大事にした方がいい。
ちなみに、ぼくはそういう絵が下手だ。
だから、ぼくも大したことがない絵描きってこと。

センスとか、信用とか。

2019.12.13

こういうことをつぶやきました。
 

「センス」とか「粋」とか「信用できる」とか「有能」とか「いい人」とか「おもろい」とか「頭がいい」とか「質がいい」とかって、全部同じことを違う言葉で言っているだけだよな。逆もまた然り。

 
昨日は「大手の中心にいる人たちは、失礼なくだらない振る舞いによって、会社の利益を損なうことをしない」というようなことを書いたけれど、このつぶやきも同じだ。
大手の中心にいる人たちと仕事をすると、「この人センスないな」とは思わないし、「野暮だなー」とも、「この人は裏があるなー」とも、思わないんですよね。
そして、ちゃんと「質がいい商品」を作ろうとしているんですよね。
中核事業から離れれば離れるほど、この逆になっていきます。
 
今、大手の人たちを例に挙げているのは、比較がしやすいだけなので、中小企業だろうと零細企業だろうと同じです。
「信用できるなー」という人は、だいたい野暮なことはしないもんです。
そして、「センスがいい」ということを、ちゃんと察知する力を持っているんですよね。
これは、先日まで読んでいたデンマークの本で確信しましたが、そうやって育ってきたってことなんです。
センスがいいものに囲まれて育ったり、粋な大人に育ててもらったり、信頼できる人に育てたもらったり、質がいいものに囲まれて育ったりすることで、積み重ねてきたものなんです。
 
エントロピー的に言えば、人間は素晴らしい生き物じゃないんだから、素晴らしいものや人と関わりを持っていないと、悪い奴になっちゃうんですよね。
いい景色を見たり、おいしいものを食べたり、やさしい人とおしゃべりしたり、美しい作品を観たり、感動する映画を観たり、感動する本や漫画を読んだり、おもしろいゲームをしたり、笑っちゃう話を聞いたり、心地よい音楽を聴いたり、熱中する趣味に没頭したり、いろんなことがぼくらのセンスを育てるのです。
だからね、忙しいっていうのは、嫌な奴になっていくことでもあるんだよ。
余白を作るのが、大事なんだ。

一日が早いと余白ができない。

2019.12.11

「くっそ〜、一日が早かったぜ」
そんな始まりですが、本当に、今日という日はそんな日でした。
内容を書くつもりはありませんが、こういう日があると、「もったいないな」と思います。
 
「一日は長い方がいい」、そう思っています。
子どもの頃の、あれを楽しんだり、これを楽しんだり、ごろごろしたり、駆け回ったり。
大人になってから、何かに集中したとしても、それが持続するのは一時間程度。
集中のためのスイッチを入れて、短く、深く。
そして、次の集中に移る。
それでいいと言えばいいのかもしれませんが、もうちょっとね、だらだらしてもいいと思うんですよ。
現に、これを書いている時間は21時を過ぎてるっていうのに、まだ英語の勉強もしていない。
散歩だって、さっき行ってきたばかりです。
マリオカートだってやっていないんだから。
 
こうやって書いていると、「ふざけるな」と怒られるかもしれませんが、「余白」を作り出さなければ、ぎゅうぎゅうになって息苦しくなるのが、大人です。
もったいないというのは、余白を埋めるためにあるのではなく、余白を作れなかったことに感じるのです。
スケジュールが変わって空くのなら、何かを入れるのではなく、空いた余白を満喫する。
それが、新しいことを始めるきっかけになるんだから。
余白、作ろうぜ。

呼吸をするように仕事をする。

2019.12.10

毎日何かしら作ってて、デザインしたり、写真撮ったり、ライティングしたり、動画編集したり、家事で料理したり、作らない日はないんじゃないかというぐらいです。
しかも頼まれてもいないものも作ったりして。
そこに英語の勉強も入れちゃってるんですよね。
いや、自分、凄いと思いますよ。
なんて言ってみたりして。
 
忙しいって言いたいんじゃなくて、呼吸をするように、作ることが体にとって当たり前になっているっていう話なんです。
ぼくの知る限り、仕事を楽しんでいる人って、みんな同じです。
飲食店のオーナーや、会社の経営者、イラストレーターにセラピスト…。
職種ってことじゃないんですよね。
みんな生命力があるんです。
 
ぎゃーぎゃー喚くとか、活発な議論をしなくても、「あぁ、この人は活き活きしているな」というのは感じるものです。
たとえ、物静かな人でもです。
カラ元気で本当に元気になることもありますが、それとは意味が違うんですよね。
立派に見せる必要もないし、キラキラする必要もないんです。
そうやって見せている現場や人というのは、そういう理由があるのでしょうが、まぁ、随分無駄なことをしているなぁと思うんですよね。
 
かく言うぼくも、ちょっと前までは立派に見せていたこともあります。
でも、そう見せている瞬間のつまらなさは、自分が一番よく感じていたんですよね。
もしかしたら、そう感じる人間だったから、止めたんだと思います。
 
苦しそうにしか仕事ができない人もいるでしょうし、忙しい自慢をしたい人だっているでしょう。
色んな人がいるってことなんですよね。
ま、類は友を呼ぶと言うように、ぼくは「呼吸をするように仕事をしている人」が好きです。