Archive for 2018.10

8ではちけれん。

2018.10.31

なにかせわしく追い立てられている感じがしていたら、プライベートを含めて、案件が8つになっていることに気がつきました。
些細なものから、大きなものまで。
 
もう何かのキャッチコピーのようです。
その場合は、「小さなものから、大きなものまで。」でしょう。
いやいや、「アリさんから、ゾウさんまで。」とか。
「新馬から、有馬まで。」とかね。
そういえば、有馬の季節になってきたな〜、なんて。
近所に馬事公苑があるせいか、子ども以来に競馬のことを思っちゃいました。
競馬に興味がない人が読んだら、なんのこっちゃですよね。
 
しかも、うまいこと言ったかのような、ニヤケ顔してんじゃないって、俺よ。
当たり前のことじゃないか、えぇ、どぅなんだい。
こうして遊ばないと、脳みそがはち切れんばかりの忙しさです。
悠長に構えているように見えるでしょうが、案件だらけっすよ。
半分プライベートですけど。
まったくもって意味のないことを書いているな、俺よ。
あぁ、今日はゆっくり寝よう。

最後に、「8ではちきれん。」、失礼しました。

冠婚葬祭。

2018.10.30

これを書いている日付(2018年10月29日)に、ぼくは入籍しました。
父親が亡くなった年に入籍をするので、ぼくはぼくとして結構神経をつかいました。
ぼく個人の心情というよりかは、結婚相手を含めた、ぼくの周囲にいる家族たちの心情を推し量ることの連続でした。
ぼくの母にも、結婚相手にも叱ることはありました。
仕事でも、関係各社や当事者たちの、政治的な部分を推し量ることは常ですが、これは些細なところは違くても、慣れてしまえば分かりやすいです。
けれど、今回は、人がそれぞれの人生の中で、とても悲しむ場面であったり、喜ぶ場面であったりする。
そして、周囲の親族もこれに同調して、悲しみや、喜びなどの感情を大きくする日々や場面です。
正直、この年齢でよかったと思いました。
もっと若ければ、どっちも投げ出しかねなかっただろうと思います。
いま、一日が終わろうとしていて、ようやく「これでよかったんだな」と味わうことができそうです。
この後には、「入籍報告用の知らせ」と「喪中ハガキ」をつくるけれど、知人たちが混乱しないようにしないとな。

どうやって覚えたんだろう。

2018.10.29

先日の資料の話とも似ていますが、基本的な土台の部分を共有していないと、仕事の会話が成立するのが難しいよな、と思います。
ぼくが依頼人にデザインのノウハウを伝える理由のひとつに、そうした方が相手の理解も進むからというのがあります。
これは、ぼくから誰かに依頼するときも同じです。
 
仕事関係の依頼をする場合はなおさらです。
知っていて欲しいし、知らなきゃ仕事にならんだろ、ということも思わなくはないです。
人が美しいと思ったり、かっこいいと思ったり、かわいいと思ったり、誠実だ、品があると思うのには、ある程度の見せ方があります。
それが基本的な土台になり、この土台をどんな風に伸ばしていくのか、広げていくのかは、その時々によって変わってきます。
また、やる人によっても変わってしまうものです。
けれども、土台の部分は変わりません。
 
だからこそ、この土台の部分を握り合えないと、仕事の話はなかなか噛み合いません。
ぼくの依頼人は「作る人」ではないので、教えればいいのですが、ぼくが依頼する場合は相手は「作る人」です。
そして、こういった土台は教えて分かっても、作れるようになるとは限りません。
むしろ作れません。
 
作れるようになるためには、体で覚えなければならないのですが、さて、ぼくはどうやって体に覚えさせてきたのだろうか。
ひたすら作って、見ての繰り返しだったと思うんだけどなぁ。
いつの頃から、ひとりで作れるようになったのか。
ずぅっと、ひとりでやってきたからなぁ。

「好き」「嫌い」で話す。

2018.10.28

「どんなにいい商品でも、生理的にイヤなものは買われない。」
 
打合せ中、「いい」「わるい」で話を進めていくと、ここにたどり着けないです。
 
子どもの頃(今もかも)、「生理的にイヤ」という表現がありました。
同学年の女子が使っていたのか、テレビの中の人たちが使っていたのかは忘れましたが、子どもながらに「最強の言葉だな」と思っていました。
「好き」「嫌い」で判断するとき、人はそれほど考えていないです。
「好きな理由は?」「なんで嫌いなの?」と質問されたとしても、回答される内容は、その場しのぎでそれらしいことを答えているはずです。
 
たとえば、嫌いな食べ物に「ラーメン」を挙げたとします。
(断っておきますが、小麦を食べていた頃はラーメン好きでしょっちゅう食べてましたよ)
それを聞いた人が「なんで?」と理由を聞く。
すると、「脂っこさ」「におい」「しょっぱい」「麺をすする」「急いで食べる感じ」など色々あるでしょう。
そして、これらを解消したからといって、「嫌い」と言っていた人が、「好き」になるかといったら、そんなことはないんですよね。
 
商品開発の会議で足りないのは、ここです。
しかも、「嫌い」と言っている人たちを「好き」に変えようと商品開発をするから、もともと好きで食べていた人たちのことも、置き去りにしていたり。
「嫌い」は「悪い」ではない、ということを把握していないと陥る状態です。
仕事でも「好き」「嫌い」で話していいと思うんですよね。

デザインを語ること。

2018.10.27

いま資料を作っているのですが、ぼくが資料を作るときは決まって「知らない人に知ってもらった方がいいとき」です。
 
たとえば、「デザイン経営宣言」なるものをはじめ、いま巷ではデザインはビジネスに役立つものとして思われているでしょう。
けれど、そう思っている人たちが、デザインについて何を知っているかというと、何も知らないのが現状です。
最近では、デザイナーではない人がデザインについて語っているせいもあって、デザインの誤解は加速するばかりです。
 
だから、最低限の正解をレクチャーする資料を作っては、新規の依頼人にはまずは受講してもらうことにしているのです。
その資料のバージョンアップを図っているところです。
「最低限の正解」としているのは、ぼくも含めて、考える仕事までしているディレクターと呼ばれる人たちなら、言葉は違えど似たような認識をしているという程度にとどめているためです。
 
それ以上先のことになると、十人十色となり、ぼくの特色、誰かの特色がどうしても漏れ出てしまいます。
この特色は、仕事を進めていく上では仕方のないことですが、同じ現場にディレクターが何人も存在しないように、はじめの一歩にあたる人が持つべきものではないからです。
そうしないから、デザインの誤解が生まれるのです。
つくるばかりが仕事ではないですが、つくれない人(つくらなくなった人)がデザインを語るのは、とても危険な行為です。