Archive for the ‘おすすめ’ Category

バリ島ウブドで学んだこと。パート3。

2019.4.10

思えば、アルマ美術館で見かけたスタッフ衣装が綺麗だった。
写真を撮らなかったことを、いまさらながら後悔している。
白のシャツに、濃いめのピンクと黄色のスカート。
スカートは腰巻だったかもしれない。
バリ舞踏で見た民族衣装は、上下ともにきらびやかだったから、衣装デザインとしては、そんなに古いものではないだろう。
 
白いシャツはレフ板としても使えるように、表情を明るく見せる。
普段から笑顔があふれているバリ女性の表情が、いっそう美しく映える。
薄化粧も、清潔さを醸し出すのに手伝っているだろう。 
そこに、色味のはっきりしたスカート。
清潔さに彩りが加わる。
素朴さと清潔さに彩りを合わせたスタッフは、本来の気立ての良さに輪を掛けて、とても魅力的に見える。
頭のてっぺんからつま先まで、バランスがとてもよかった。
靴はどんなのだったか思い出せないのが惜しい。
 
こう考えていると、古いものを観に行っても、そこに携わる人や物のすべてが古くあっては感動しないということに気が付いた。
それで感動するのは、自然の中だけだ。
人工物が混ざった時、古い遺跡を観に行っても、全部が全部古いままだと人は訪れないだろう。
そもそも、訪れることができなくなってしまう。
 
訪れることができても、会う人が古いままであれば、出会ったときのインパクトはあるかもしれないが、その後の関係性で感動は訪れない。
古(いにしえ)を引き受けて、「いま」を生きる、血の通った部分に、私たちは感動を覚えている。
アルマ美術館のスタッフが素敵に見えたのは、古くからのバリっぽさの中に、現代の良さが混ざって、人柄が表れたからに他ならない。

バリ島ウブドで学んだこと。パート2。

2019.4.9

バリにいて感じていたのは、デザインを大切にしていないところは、サービスやホスピタリティの質も低いということ。
いや、逆に言った方が適切だな。
サービスやホスピタリティの質が高いところは、デザインも大切にしている、と。
ま、これは日本でも同じなんですけどね。
 
ただ、「笑顔」のホスピタリティが多いバリにおいて、これはとても顕著に表れていた。
デザインを大切にしていないと感じられる場所では、笑顔がほとんどなく、接客にも圧を感じる。
タコのようについて回ったり、テーブルの横に立っていたり、そういう場所では、お客であることの居心地の悪さを感じた。
 
逆もまた然り。
気持ちのいい接客をしてくれるところでは笑顔も多く、衣装が清潔であったり、グラフィックも抜かりなく作っていたりと、トータルのデザインを大切にしていた。
見た目にも、味にも、対応にも気持ちがいいのだから、こちらとしてもお金を落としたくなるもので、そういう場所では、色々と注文したり、お礼の印であるチップをはずむ。
 
けれど、バリにはチップをもらう習慣がもともとなかったのも手伝って、チップをもらわない人もいた。
ということは、本当に金じゃなくて、自らを捧げていたのだ。
これを彼らの言葉では「ンガヤ」というらしいが、日本で「金じゃない」と言っている人たちが、どれほど多くの人を傷つけているか。
そして、圧倒的に「笑顔」の少ない日本人が「ンガヤ」の精神を共通しているとは言い難い。
真心を相手に求めるのが、日本にいての感想だ。
日本で「金じゃない」という言葉がでるときは、クリエイティブというサービスを提供していて、酷くいいように使われるときだ。
 
そもそも、サービスにおけるホスピタリティというのは、受けた相手がそう感じるかどうかだ。
だからサービスの提供者は、ホスピタリティを持ってサービスを提供するが、相手がどう感じるかはわからない。
そして、これに気づいている人たちが、デザインも大切にしている。
そんな気がしてならない。
 
というのも、デザインを大切にしたくても、デザイナーにお金を支払えなければ注文もできないわけで、彼ら自身が稼いでいなければならない。
だから、ホスピタリティの高いお店は、低いお店よりも、サービスの金額は高い方になる。
けれど、先ほども書いたように、見た目、内容、対応が気持ちがいいのだから、お客としても支払いたくなる。
だから、値段が高くても稼げる。
日本で「金じゃない」と言っている人たちは、稼げないことを棚上げし、「金じゃない」の一言で周囲を疲労させている。
この違いはかなり大きい。
 
「ンガヤ」の精神は、金じゃない。
しかし、「ンガヤ」の精神を持っていると、稼げてしまう。
だから、本質は金じゃない。
 
こういうことを言うには、遠回りしなきゃいけない。
だから、「金じゃない」と言うのは、自分が何かをする側(捧げる側)に回ったときだけだ。
これは、ぼく自身もかなり気をつけていたことだったので、違う国でこれを感じて、とても励みになった。
 
写真は、素敵なホスピタリティのバリ ボヘミアハッツのパンフレット。
カユマニス ウブドもすばらしかった。
アルマ美術館はスタッフが可愛かった。
 

詰めない。

2019.1.27

よかった、と思った。
数日前から読んでいた『雪と珊瑚と』を読み終えて、まずはそう思った。
 
いくつもの親子という関係性がこの中にはあるが、ぼくがひたすら感じていたのは、「甘える」という関係性だ。
小説の中で「そこまで依存できない」という言葉が出てきたが、甘えるには、甘える相手に対して、身を預けるような覚悟が必要になる。
「お願い」や「依頼」には、ダメ元で、というのが入り込む余地があるが、「甘える」が成し得ないと、大きな拒絶のように見えてしまうものだ。
 
子どもが親に甘えることができないと、怒り、泣いたりするのは、それがダメ元ではないからだ。
そして、行為としては「お願い」であっても、そのお願いの中には「甘える」要素が含まれている。
だから、どんなときでも主人公の女の子は甘えてきたじゃないか、と受け取られる側面もあった。
本人の意思とは関係なしに「悲劇のヒロイン」を勝ち取ってきたようにも見えてしまうひっかかりを、敵意として指摘する人物がいたことにも、ぼくは救われた。
 
ただ、余裕がなかった人生を歩んできたのは確かだろう。
そういう人が、どこかのタイミングで、張り詰めない人間関係を頼って生きていく術を手に入れるのは悪いことではない。
どこかで人は、頼られると嬉しいものだ。
けれど、頼る方も頼られる方も、このあり方を把握していないと、緊張して、張り詰めて、不信感を抱き、相手を怒らせる。
 
そして、どうしても、ウマが合わない人はいる。
そういう人からは、何をしていても目障りに見えてしまうものだ。
どちらかが善人で、どちらかが悪人、ということもないだろう。
 
張り詰める、ということを考えていて、自分のことを省みていた。
力強さは欲しいけれど、張り詰めるっていうのとは違うよな。
思い詰める、根を詰めるもそうだけれど、詰めても仕様が無いことだってあるもんだ。

いいお店。

2018.12.25

看板娘というのは、あの子のためにある言葉だなー、と思う人がいます。
 
ぼくら夫婦は毎朝コーヒーを飲みます。
豆を手動のミルでガリガリガリガリ……。
だいたい2週間ほどで、300グラムの豆はなくなります。
すると、電車を乗り継いでコーヒー豆を買いに行きます。
最初は、無農薬のコーヒー豆を求めて行き、今も同じ豆を買っているのですが、おそらくその豆がなくなったとしても、その店に買いに行くだろうと思います。
 
ぼくらは、このお店で働いている人のファンです。
まだあどけなさが残る、レッドやブルーなどのはっきりした色が好きそうな店員さん。
その店員さんの、初めて接客してもらったときの、コーヒー豆や焙煎の具合を説明するときの話し方が、とても素敵だったのです。
コーヒー豆をお客さんが好きになるような的確な勧め方に加えて、勧めている自分も好きなんだろうなぁと思わせる愛嬌。
他の人は知りませんが、完全にぼくら夫婦のツボにハマりました。
ヒット?いや、満塁ホームランです。
 
たとえ商品のことがそれほど好きじゃなくてもどうでもいい、と思わせる魅力が、看板娘にはあるんだと気づかせてくれました。
接客だけ見ていると、コーヒーが好きなんだろうなぁ、と疑いの余地がないんですよね。
 
そして、このお店は、豆以外にもドリンクも提供していて、ぼくらはこのお店のカフェオレも好きなのです。
焙煎してもらっている間に飲むのですが、コーヒーの美味しさを感じるカフェオレです。
それで、いつも感心するのが、カフェオレを飲んでいる間、他のお客さんと接客している姿を見るのですが、これがすごい丁寧。
中にはぶっきらぼうなお客さんもいますが、変わらず丁寧な接客を見ていると、「がんばれ」と応援する親の気持ちになります。
 
お客さんが守りたくなるのが、いいお店なんだと気づかせてくれました。
 

NAOTの靴。

2018.12.22

靴を磨いている人が好きです。
 
二足ある仕事用の靴のうち、ヌバックレザーの靴が、どうにもこうにも汚れが取れなくなってきたので、新しい靴を見に蔵前に行きました。
冒頭の一文は、電車に乗っていて、真向かいに座ったおじいさんの、手入れをされている靴を見て思ったことです。

ぼくは自分で靴を磨きます。
磨けてない月日が長いと、忙しさにかまけている自分を内省します。
どこか所在無げな靴を、暗がりの玄関で見つけては、「あぁ、ごめんよ」と申し訳ない気持ちになります。
 
自分のことだけであれば、靴を磨く必要などないはずです。
モノは、どれだけ手入れをしても、買い換えるしか術のない状態になります。
自分だけであれば、ボロになって買い換えるのが、早いか遅いかの違いだけです。
 
どこかの本で見たのか、人から又聞きをしたのかは忘れましたが、「おしゃれは人のためにするもの」という言葉と出会ったことを、いま思い出しました。
靴の手入れをするのも、同じだと思います。
少なくとも、同じ部分があると思います。
 
自分色になった履きジワに、手入れをされた艶やかな革。
おろしたてのピカピカの光沢とは、また違う趣があります。
手入れをされた靴には、履く自分の他に、その人をみた相手も気持ちよくさせてくれる魅力がある気がするんですよね。
 

そうこうしているうちに、蔵前につき、昼食を済ませ、靴屋さんに向かいましたが、入り口まで行って、一度引き返して川沿いに行きました。
しばらく日光浴をしながら、考え事をして、腹を落ち着かせて、もう一度靴屋へ向かいました。
 

お店の名前は「NAOT(ナオト)」さん。
ヘブライ語で「オアシス」という意味で、店内は靴が整頓されて並んでいます。
すでにネットでめぼしいものを見つけていたので、その靴を見つけて、さっそく試着。
小さいのに甲高なぼくの足、やはり、ぴったり合っている感覚はしていません。
 
けれど、驚いたのは、その後。
「調整しますね」と店員さん。
インソールをすすすーと調整。
三度目のフィッティングで、すんなり収まるぼくの足。
 
もうね、マジックとしか言いようがない体験をしました。
靴って気持ちいいんだぁ。