Archive for the ‘おすすめ’ Category

詰めない。

2019.1.27

よかった、と思った。
数日前から読んでいた『雪と珊瑚と』を読み終えて、まずはそう思った。
 
いくつもの親子という関係性がこの中にはあるが、ぼくがひたすら感じていたのは、「甘える」という関係性だ。
小説の中で「そこまで依存できない」という言葉が出てきたが、甘えるには、甘える相手に対して、身を預けるような覚悟が必要になる。
「お願い」や「依頼」には、ダメ元で、というのが入り込む余地があるが、「甘える」が成し得ないと、大きな拒絶のように見えてしまうものだ。
 
子どもが親に甘えることができないと、怒り、泣いたりするのは、それがダメ元ではないからだ。
そして、行為としては「お願い」であっても、そのお願いの中には「甘える」要素が含まれている。
だから、どんなときでも主人公の女の子は甘えてきたじゃないか、と受け取られる側面もあった。
本人の意思とは関係なしに「悲劇のヒロイン」を勝ち取ってきたようにも見えてしまうひっかかりを、敵意として指摘する人物がいたことにも、ぼくは救われた。
 
ただ、余裕がなかった人生を歩んできたのは確かだろう。
そういう人が、どこかのタイミングで、張り詰めない人間関係を頼って生きていく術を手に入れるのは悪いことではない。
どこかで人は、頼られると嬉しいものだ。
けれど、頼る方も頼られる方も、このあり方を把握していないと、緊張して、張り詰めて、不信感を抱き、相手を怒らせる。
 
そして、どうしても、ウマが合わない人はいる。
そういう人からは、何をしていても目障りに見えてしまうものだ。
どちらかが善人で、どちらかが悪人、ということもないだろう。
 
張り詰める、ということを考えていて、自分のことを省みていた。
力強さは欲しいけれど、張り詰めるっていうのとは違うよな。
思い詰める、根を詰めるもそうだけれど、詰めても仕様が無いことだってあるもんだ。

いいお店。

2018.12.25

看板娘というのは、あの子のためにある言葉だなー、と思う人がいます。
 
ぼくら夫婦は毎朝コーヒーを飲みます。
豆を手動のミルでガリガリガリガリ……。
だいたい2週間ほどで、300グラムの豆はなくなります。
すると、電車を乗り継いでコーヒー豆を買いに行きます。
最初は、無農薬のコーヒー豆を求めて行き、今も同じ豆を買っているのですが、おそらくその豆がなくなったとしても、その店に買いに行くだろうと思います。
 
ぼくらは、このお店で働いている人のファンです。
まだあどけなさが残る、レッドやブルーなどのはっきりした色が好きそうな店員さん。
その店員さんの、初めて接客してもらったときの、コーヒー豆や焙煎の具合を説明するときの話し方が、とても素敵だったのです。
コーヒー豆をお客さんが好きになるような的確な勧め方に加えて、勧めている自分も好きなんだろうなぁと思わせる愛嬌。
他の人は知りませんが、完全にぼくら夫婦のツボにハマりました。
ヒット?いや、満塁ホームランです。
 
たとえ商品のことがそれほど好きじゃなくてもどうでもいい、と思わせる魅力が、看板娘にはあるんだと気づかせてくれました。
接客だけ見ていると、コーヒーが好きなんだろうなぁ、と疑いの余地がないんですよね。
 
そして、このお店は、豆以外にもドリンクも提供していて、ぼくらはこのお店のカフェオレも好きなのです。
焙煎してもらっている間に飲むのですが、コーヒーの美味しさを感じるカフェオレです。
それで、いつも感心するのが、カフェオレを飲んでいる間、他のお客さんと接客している姿を見るのですが、これがすごい丁寧。
中にはぶっきらぼうなお客さんもいますが、変わらず丁寧な接客を見ていると、「がんばれ」と応援する親の気持ちになります。
 
お客さんが守りたくなるのが、いいお店なんだと気づかせてくれました。
 

NAOTの靴。

2018.12.22

靴を磨いている人が好きです。
 
二足ある仕事用の靴のうち、ヌバックレザーの靴が、どうにもこうにも汚れが取れなくなってきたので、新しい靴を見に蔵前に行きました。
冒頭の一文は、電車に乗っていて、真向かいに座ったおじいさんの、手入れをされている靴を見て思ったことです。

ぼくは自分で靴を磨きます。
磨けてない月日が長いと、忙しさにかまけている自分を内省します。
どこか所在無げな靴を、暗がりの玄関で見つけては、「あぁ、ごめんよ」と申し訳ない気持ちになります。
 
自分のことだけであれば、靴を磨く必要などないはずです。
モノは、どれだけ手入れをしても、買い換えるしか術のない状態になります。
自分だけであれば、ボロになって買い換えるのが、早いか遅いかの違いだけです。
 
どこかの本で見たのか、人から又聞きをしたのかは忘れましたが、「おしゃれは人のためにするもの」という言葉と出会ったことを、いま思い出しました。
靴の手入れをするのも、同じだと思います。
少なくとも、同じ部分があると思います。
 
自分色になった履きジワに、手入れをされた艶やかな革。
おろしたてのピカピカの光沢とは、また違う趣があります。
手入れをされた靴には、履く自分の他に、その人をみた相手も気持ちよくさせてくれる魅力がある気がするんですよね。
 

そうこうしているうちに、蔵前につき、昼食を済ませ、靴屋さんに向かいましたが、入り口まで行って、一度引き返して川沿いに行きました。
しばらく日光浴をしながら、考え事をして、腹を落ち着かせて、もう一度靴屋へ向かいました。
 

お店の名前は「NAOT(ナオト)」さん。
ヘブライ語で「オアシス」という意味で、店内は靴が整頓されて並んでいます。
すでにネットでめぼしいものを見つけていたので、その靴を見つけて、さっそく試着。
小さいのに甲高なぼくの足、やはり、ぴったり合っている感覚はしていません。
 
けれど、驚いたのは、その後。
「調整しますね」と店員さん。
インソールをすすすーと調整。
三度目のフィッティングで、すんなり収まるぼくの足。
 
もうね、マジックとしか言いようがない体験をしました。
靴って気持ちいいんだぁ。
 

その人の歩んできたすべてが乗っかるもの。

2018.12.10

実写版の『3月のライオン』を観ました。
それで気づいたことがありました。
「将棋はなくならない」
ぼくに言われるまでもないことでしょうが、ぼくの中で腑に落ちたことだったのです。
 
AIが育つことで将棋のような頭脳戦がなくなるかと言ったら、そんなことはないだろうと感じていました。
でも、「あぁ、そうか」と、なくならないことを実感したのです。
将棋だけではありません。
己のすべてが乗っかるものはなくならない、こういうことなのだ。
 
野球やサッカーの判定にAIを取り入れることに警鐘を鳴らす選手も、もしかしたら、こういうことと近いのかもしれません。
昨日のQueenのライブの話もそうです。
「その人の歩んできたすべてが乗っかるもの」、こういう姿にぼくたちは心を動かされ、お金を払いたくなります。
事業において、ぼくがABテストや多数決を避けるのは、決を取った人のこれまでのすべてが乗らないからだったのかもしれません。
 
「どんなものにも100%の正解なんてない」
『3月のライオン』の劇中でも言っていましたっけ。
依頼人を叱るときに、ぼくも言っているので、ハッとしました。
事業だって同じさ。
 
古臭い言い方だけど、人の血が通ったものに、人は心を動かされるんだ。
いま、自分の限界を超えようとしている最中だったので、とても励まされました。

勇気づける映画。

2018.11.30

今日(この記事が載るのは翌日の11月30日)は、妻の誕生日でした。
出かける前の数十分以外は、まったく仕事をしませんでした。
出かけると行っても、パスポートの変更届けを一緒に行って、昼飯を食べた後は、途中、別行動を挟みました。
別行動の後は再び合流して、一緒に妻のケーキを買いました。
 
前置きが長くなりましたが、今回の話は、別行動中に観た『ボヘミアン・ラプソディ』です。
ぼくが説明するまでもなく、クイーンの伝記的映画です。
ぼくは、これまでクイーンの音楽にはそれほど触れてこなかったので、映画として純粋に楽しめました。
 
マイノリティであること、他人同士の家族であること、エモーショナルであること、喧嘩をすること、そして、ロックスターであること。
事業をしていて、度々思うことと重なります。
 
マイノリティであることは、これまでの世の中に反発もするし、それまであったものでは満足できないということです。
それは、一般的じゃないってことでもあります。
だから、就職をするのではなく、事業を興すのです。
反発をするには感情的になりますし、お客さんがファンになるのも感覚的に好きになり、惚れたからです。
説明しても足りない気持ち、それが感情です。
言い得て妙というには、あまりにも優等生すぎる。
 
けれども、そうして反発してきたのに、ロックスターになるということは、一般的人気を得るということです。
この逆説が起きるのが、物事のはじまりと過程と終わりです。
この繰り返しが、いつの時代も起きるんだよなぁ、と思いつつ、何も思うところがなければ、何かをしようとすることもないんだぜ。
そんな毒にも薬にもならないことを考えていました。
デザインという仕事は、ロックスターの卵に勇気を与えることでもあるんだよな。