Archive for 2018.9

他人の痛みを配慮できる人がいい。

2018.9.30

強くなくていい。
朗らかでなくていい。
勤勉でなくていい。
他人の痛みを配慮できる人がいい。
 
これ、よく思うことなのですが、他人への動機付けが上手い人と下手な人の違いだと思うのです。
 
他人への動機付けが下手だと、「良い人」が協力してくれず、自分の利益のために利用してくる人が集まってきます。
なぜこうなるかというと、動機付けを試みている人自身が、自分の利益のために他人を協力させようとする「嫌な人」に映るからです。
根っから利己的な「嫌な人」なのか、アウトプットの仕方が不適切で「嫌な人」に見えてしまっているのかの違いはありますが、残念ながら、話を聞かされる人にとっては、目の前の人が「嫌な人」に映っているのです。
 
嫌な人というのは、強い言葉を使って、早口に、大きな声で、責任論や使命感で訴えかけます。
訴えかけられている相手への配慮が、どこにもありませんよね。
これだと、他人の痛み(困りごと)を配慮しながら動こうとする「良い人」は協力しません。
その代わり、困っている人を利用する「嫌な人」が集まってくるのです。
 
お願いをする相手はいまどんな状態なのか、負担にならないのか、困らないのか、まずは考える余裕ぐらい持ちたいよなーと思うのです。
マッチングなんて言葉じゃ収まんない意味なんです。
(「良い人」「嫌な人」という言葉は、幡野さんの本に影響されてます)

ひとりの人の世界が広がったら嬉しい。

2018.9.29

う〜ん、何を書こうか迷っています。
迷っているというか、説教ぽいことが思い浮かんでいるのですが、それは書きたくないな〜と筆が止まっている状態です。
んで、止まっていることを正直に書いてしまおうというのが、今日の内容です。
まったくもって薄い内容になるかもしれませんが(はじめから期待していない!?)、ちょっと本日はお付き合いいただけると嬉しいです。
筆を止めた理由は、「誰かを攻撃しそうだな」と「自分の手柄を言いそうだな」ということを感じたからです。
誰かを攻撃しながら、自分の凄さを示すようなことは、ネットの中では当たり前に起きていることですが、このブログがそういう世界になる必要はないよな、と思ったのです。
なんか面白い、なんかタメになる、なんか暇つぶしになるなど、なんでもいいのですが、ブログを読んでくれているひとりの人と、近い存在でいたいのです。
ちょっとだけでいいから、世界が広がったら嬉しいのです。
ひとりの時間は大切ですが、ひとりが飽きたら、ここの存在を思い出してほしいのです。
ただただ、そういうブログでありたいのです。

暖かい布団。

2018.9.28

一昨日あたりから冬用の掛け布団を使っています。
もうね、暖かいんです。
春眠暁を覚えずならぬ「秋眠暁を覚えず」ですね。
暖かい布団で眠っていると、大学の頃にしていたひとり旅を思い出します。
その中でもつらかったのは、冬の雪国です。
当時、お金もろくになかったぼくは、無人駅のプレハブ小屋で宿を取っていたのですが、これが眠れないほど寒くって。
「このまま眠ったらやばいぞ」
と体から信号が出て、眠いのに、眠れない。
いつの間にか始発の時間になって、すがるように電車に乗って、はじめて眠りにつく。
そんな旅でした。
これを境に、暖房機器のありがたみ、隙間風の入らない居住環境のありがたみを身にしみたのです。
懐古主義のような場面に遭遇すると、「君はあの寒さを体験していないだろう?」と聞いてみたくなるのです。
いい面も悪い面もある。
暖かい布団に入ると思い出される体験です。

ユーザーという名前の人はいない。

2018.9.27

絶対に正しい答えなんてないのだから、ユーザーという言葉で、自分の考えを誤魔化しちゃいけない。
鶴の一声を使うほど、自分の頭で考えることができなくなる。
多数決、ABテスト、ヒートマップ、データ、、、世の中には自分の頭で考えないやり方がたくさんある。
これらはあくまでもツールだ。
情報の取り方、情報の見方が合っていても、必ず誤差がある。
ユーザーという言葉を使うとき、本当は、自分がいいと思っているんだろう?
そうであれば、自分の考えとして話した方がいい。
誤魔化しちゃだめだ。

モノと人、そして、人。

2018.9.26

いろんな案件を経験してきて気づいたことがある。
 
「モノをつくる方が感動する」
 
感動するのは依頼人や生活者、つまりすべての人だ。
これがwebやアプリなどになると、途端に感動的なシーンにならない。
これは媒体による差が大きい。
webやアプリなどの場合、オリジナリティを極力排除することで、使いやすさが向上するのが定石だ。
使い心地に何も感じさせないことが、一番使いやすいともいえる。
交通系ICカードのように、人を介しないサービスの鉄板ごとともいえる。
 
しかし、感動というのは、一種のつまずきだ。
たとえば、感動の種類として「美しい」というのがあるが、いちいち「美しい」と感じていたら、使い心地もあったものではない。
美人は三日で飽きるといわれるように、飽きないようにするのが感動だ。
「かっこいい」や「かわいい」も同じだ。
そして、「美しい」や「かっこいい」などの言葉が出るのは、決まってモノをつくっているときだ。
 
「これならイケる」と依頼人も含めて感動するのは、モノのときだけだ。
けれども、発売した後に改善をするのはモノでも、モノじゃなくても起きる。
それでも、感動という差が生じてしまう。
さらに言えば、モノじゃなくても、接客業のような人を介したサービスも、モノと同じような感動がある。
 
モノであることと、人と人とのコミュニケーションであることは、人が抱く心地として何か共通のものがあるのかもしれない。
 
モノと人、そして、人。