Archive for 2009.11

作品と触れ合う時間

2009.11.30

 昨日、ワークショップのゲスト講師をさせていただきました。その帰り道、受講生の方に質問されたことに興味深いものがありました。

 質問
 「エグチさんは、(睡眠時間が6時間ぐらいだとして)1日どれくらいの時間、作品のことを考えていますか?」

 皆さんはどうでしょうか? 僕は、1日中、作品の事を考えていますし、触れています。と、いうのは、今キーボードを打っている感覚やモニターを見ている感覚からも作品をつくることが出来るし、夢の中でも作品をつくっていたり、作品と触れていたりしているからです。これは、コップを洗っていたり、電車を待っている時のように、一見すると作品とは関係の無いことをしている時でさえも作品と結びつけて考えているし、自然と結びついてしまうのです。つまり、1日中、作品と共に過ごしています。

 けれども、それは藝術業に限って言うことなのでしょうか? 僕はそうは思えません。スポーツ選手でも料理人でも大工でもどんな職種であれ、良い仕事をする人というのは、常にその業種と過ごしているように思えます。昨日も、受講生の作品を拝見させて頂いてお話をしていて作品の話ではなく他の事柄と結びつけて話をさせて頂いた時は、まずはそのことに気付き、ちょっとやってみようかということでした。

 藝術というのは特別な事ではなく、他の業種と変わらずごく有り触れた社会的な事である一方、それをやり続けるには、常に作品といる(結びつけて考えることが出来る)ことが重要だと考えられます。

 とても貴重な時間を過ごさせて頂き、誠にありがとうございました。

 エグチマサル

(坂井さん、名前で検索してもHPに当たりませんでした。検索の仕方が悪かったのかな・・・?)

「一生懸命」と「幸せ」

2009.11.28

 友人に誘われてサルガド展(セバスチャン・サルガド「アフリカ」)へ。

 数年前にも東京都写真美術館でサルガドの展示が催されていたと思われるが、その時の方が圧倒されたような感じがしていた。どこかでビジュアルに慣れてしまったのだろうか、ドキュメンタリーの部分であれば他の映画や文献などで知り得る事が出来るので、それらをなぞるような感覚で見ていた。そして、主旨とは少し離れる画の方に惹かれたのだった。

 それよりも有意義に思えたのが、展示を見終わった後、友人とアフリカ地区の話から「幸せ」の話をしていたときだ。8時間ぐらいだろうか、サシで「幸せ」について話を交えることが出来たというのは、とても大切な時間だった。

 「どんな状況であれ、一生懸命に自分に正直に生きる」ということが「幸福感」に繋がっていくのではないだろうか(「正直に生きる」ということと「自分勝手に振る舞う」ことの違いは、過去のブログに書いてあるので割愛させて頂く)。個人個人がそのように生きることが出来れば、所謂、「ブラック会社」というものも運営が出来なくなるし、仮に、衣食住のどれかでも著しく欠けてしまい、「幸せ」について考える力や気付く事が出来ないのであれば、欠けているものを与えることから始めても良いと考えている。

 そのことに気付いた後、人は幸せになるのではないだろうか。人は誰でも生まれ、死ぬ。そのことにおいて人は平等だ。しかし、不幸な表情のまま死んでいく者がいたり、満ち足りた表情をして逝く者がいることも事実であり、人はその一点においては異なる。そして、死んだ後は、気付く事も考えることもやり直すことも出来ない。そうであるのならば、「その日」が訪れる前に、気付けた方が良いとは思わないだろうか。

 「大変な状況にいる者は、そんな悠長なことを言ってられない」というのであれば、欠けているところを補うことから始めても良いはずだ。自分一人でそれが出来ないのであれば、調べれば数多く仲介してくれるところが存在している。そして、考えられる状況を得た後に、考える事や藝術に触れることを始めても、遅くはないと考えられる。方法論は数多く存在してあり、「こうしなければいけない」という壁や限界(無理、苦手、不器用、不可能など)は、自分自身の勝手な思い込みなのではないだろうか。人はもっと一生懸命、頑張れるはずだ。それは僕にも当てはまり、もっと頑張れるはずだ。

 創作から離れた時間だったが、人としてとても貴重な時間を過ごす事が出来た日だった。

 

緊張感の後はニヤける

2009.11.26

 創作と額装。創作の方がゴールがないものとして思われがちだが、果たして本当にそうだろうか? 見えていなければ作ることは出来ない。輪郭もぼやけているほどの見え方だったとしても、進もうとしている者であれば、誰もがある確かな光(闇)に向かっているのではないだろうか? そうであるのならば、その確かな物の存在ははっきりさせて見えた方が良いとは思わないだろうか。見えている物が確かであればあるほど、脱線している時や遠回りしている時も意識的なところも無意識的なところ(ハッとするようなところ)も自覚が出来、自覚が出来れば、そこからの吸収率も上がる。

 話は飛ぶが、額装って楽しいよね。額を見て「オォォーっ」、剥離紙を剥がして再び「オォォーっっ」、作品が収まった状態を見て三度「オォォーっっ!」。依頼業、本当に配送以外の全てをやるようになってしまった。

タイミング

2009.11.21

 大倉集古館へ「根来」展を観に行っていた。夏過ぎに招待券を頂いて、凄く興味を注がれていた展覧会だ。その期待を裏切られる事はなく、心の奥底を澄み切らせてくれるものだった。そして、声を聞く。「作れ」と。「ただ正直に作れ」という、僕自身の声が聞こえていた。2階のテラスに出ると日の沈みかけた空気が僕に緊張感をくれ、その感覚だけで作品を創れると思っていた。

 次の日、他の作品との兼ね合いで損得勘定が頭をよぎり、頭から煙が出そうな感じだったので、「タイミングが合わなければ止めよう」ということを思って大判出力をしにいったら、タイミングが合った。スパークしたという感じだ。
 やはり、良い。良い1枚だ。限られた人達しか観る事が叶わないのが惜しいが、良い1枚だ。何だか昔の藝術家みたいな感じになってきているが、現行の写真家や美術家のやり方が合わないので、この方が自分には合っているのだろう。

 しかし、その場所で出会った青年から「いつも見てます」と言われ、事務の人とバタバタしていたらいつの間にか彼はいなくなっていた。「緊張感が大切だ」と思った。

 それとは関係ないが、「エグチさんにとって写真って何ですか?」、「エグチさんにとって美しいって何ですか?」、「エグチさんにとって良い作品って何ですか?」、「エグチさんにとって藝術って何ですか?」と質問されるときがあるが、「○○さんにとってー」となっている時点で藝術ではないと考えられる。普遍的なものに興味があって作品を創るから藝術をやっていると言えるのであり、個人的な事柄から創作が始まったとしても、それを普遍的な事柄へと結びつけることが出来るから、それが藝術となるのではないだろうか。そして、藝術の領域で写真を媒体にしているから写真家を名乗っているのである。これは、野球選手もサッカー選手もスポーツ選手であるように、写真家と藝術家は本来分けて考えるものではない。仮に分けて考えるのであれば、写真を媒体にして藝術領域にいる人のことを何と呼ぶのだろうか? 分けて考える人達は、現代美術家と呼ぶのだろうが、そうすると別段、写真を扱わなくても良いことになると考えるのが妥当である。つまり、名称としての純度を高めるのであれば、写真家は藝術領域で写真を扱う人とするのが妥当であり、別個に考えるものではない。

Cさんがめちゃくちゃ凄いと思った

2009.11.16

 昨日、技術を覚えていた。今日はその復習。いつも思うが、新しいものを感知したり、習得するときはとても興奮している。創作現場外ではおそらく最も真面目な表情が見られるだろう。そして、大事な事が復習。知識を知恵として活用するためには、手に入れたものを無意識下で扱えるほどに習得する必要がある。それには、ひたすら意識的に錬磨することが手っ取り早い。

 何も出来なかった、繋がらなかったことが無意識的に出来たり、繋がったりしたとき、自然と笑みがこぼれる。と、いうか自然な表情になっているだろう。そして、また掴み損ねないように錬磨を繰り返していくから、その強度も増していく。こうやって日々を歩んで来て、早27年。地道なことが面白い。