Archive for 2008.9

DIGITAL DAYO !!!

2008.9.29

漸くデジカメ(コンパクト)を手に入れた。販売会社から情報を聞き、何度も試供品で撮影させてもらっていたため、けっこうすんなりと手に馴染む。しかし、同じ製品だとしても一台毎に微妙な違いがあるということを二年程前に知り、それ以降のつくり方に変化がある。アルゴリズムとヒューリスティックの違いはよく謳われているが、アルゴリズムの代表格として提示されるPCにさえ同製品による個々の違いがあるということは、批評の場で頻繁にでてくる「主観」と「客観」についてその単語の使用方法が何とも安易なことかと思わざるを得なくなった。統計学を学んだせいもあって、もとよりそのように感じていた態度がより一層、強固になったといった方が正しいのだけれども。

ブログが「文章のみで潔いね」と褒めて頂くことがあるが、実情を申しますと、載せ方がわからないというのが最初の頃でありまして、ただ、これを契機に画像を載せようということはしないと思われます。やはり、文章は文章のみで勝負をしてみたいというのが今の心情です。そして、高級機と巷では言われているこの機体ですが、とりあえずクラッシュするまで撮影をしてみようかなとやる気がたぎる。次作はおそらくフィルムから入ります。

White Box

2008.9.27

三日坊主にならないようにしてみる。

買出しがてら展示を観る。一つは問谷明希さんの展示。webに載っていたものとはけっこう異なる内容だったが、統一感が醸し出されていた。もう一つは和田裕也さんの展示で、「新作じゃないよ」と聞いていたが、充分すぎるほどカッコイイ展示だった。あの展示をみているとビールが飲みたくなったので帰宅し、豆乳スープと煮物でビールを飲む。寒くなったのでスープが美味い。

そして、黒い物体を白い物体にすると別の生物のように見えて、抱きつきたい気分になる。この生物、けっこうかわいい。

Black Box

2008.9.26

台座となる物体をジェッソで白3回→黒1回→白2回と塗るつもりだったけれど、黒を塗ったときにもの凄く良い黒い物体となり、どうにかこの状態で使えないものかと歯医者での治療中も考えていたが、やはり白くなくては台無しだ(台座で台無しだ)。お詫びに今日一日は黒いままで眺めよう。この黒さ、自分の負の部分が塊となってどすんと落っこちて現れた感じがして、かなり愛おしい。『バガボンド』を読んでいて先週、今週とでてきた「我執」の塊のようにも思える、この黒い物体。どす黒いようにも見え、漆黒のようにも見える。おそらく実家にあったら、いつの間にか、ばあちゃんに使われてしまって「ばあちゃん!?」と驚くが、それが本来の姿かもな、とも思う。

マンガはよく読む。実家にいた頃に近所にあったコンビニにはしょっちゅう立ち読みをしに行っていた。同級生が何人かそこでバイトをし、友との溜り場としても使われ、ほぼ毎日、そのコンビニに行っていた。浪人時代には夜勉強を休憩するときにコンビニに行くと、同級生がそこでバイトをしており、その人たちと会うととても心が和んでいた。しかし、昨年、そのコンビニがなくなったことを知り、コンビニがあった場所には「テナント募集」の貼り紙と立ち入り禁止のロープが痛々しく張られていた。大切な人が亡くなったときのような喪失感が、体中を支配していた。帰る場所を完全に絶たれたようにも感じていた。この1年を振り返ると、色々と失ってばかりいたようにも思える。アレハンドロ=ゴンサレス・イニャリトゥ監督の作品が良く感ぜられるのはそのためかもしれない。

wrong wrong wrong (www)

2008.9.25

展示の準備を進める。こういう時にこそ試してみたいことをやれるので、そこは惜しみなく試させて頂く。けれど陳腐なものに価値を下げてしまっては意味がないので、そこは見極めつつ、ということになる。

柳宗玄 氏の『虚空散華ー生命のかたち—』を読む。副題で気付いた方もいらっしゃるかもしれないが、「生命の形」が終わりに近づいた頃に古本屋で発見し、偶然にも作品と同じことばを持つ著書に、惹かれたのだ。直接的には「生命の形」と関わる内容ではないように思えたが、読み終える頃には、このタイトルで正しかったと考察できるものだった。垂直的にしろ水平的にしろ、一方向の成長ではなく、+αの吸収があった本であり、それはまた今年になってから度々あった成長の仕方だ。しかし、自分が4歳のときに発行された内容が、今の自分の考え方と近く、またそれは現代では当たり前とされていないことにいささか悲観的になる。誰かが言ったが、「現代は真理を追究すると生き辛い世の中である」ということを思い出す。だからといって真理を求めないようになることは間違っていると考えられるが、折り返し地点を過ぎようとしているからそのような態度でいられるのかもしれない。

未発表仕様

2008.9.24

展示用の出力をする。やはり自分が関わらさせてもらった作品はけっこうな大きさがあった方がいい。作品毎にその性質を最大限引き出せるサイズというのは変わってくるが、やはり、彼らはこのサイズだ。これ以上もこれ以下も許されない。

さっきから変な言い回しかと思われる方々がいるかもしれないが、自分は創作に入る前、かならずすることがあり、「私があなたをつくることをお許し下さい」、「私に力をお貸し下さい」ということを祈った後で、創作という闘いに入る。アテネオリンピックがあったので覚えている人もいるかもしれないが、キリスト教徒の方々がレース前に十字を切るのと似ていると思った。結局、動くのは自分であり、その力を最大限だすのも自分であり、そのために肉体について意識を向けながら錬磨を積むのだが、私は作品に作らせて頂いているという前提をもっている。その割には作品に殺意すら覚えるのだが。闘う相手にはやはり敬意を抱くということなのだろうか。

展示風景をアップしないかもしれないので(むしろしたことがない)・・・未発表のものや未発表仕様のものを展示します。偶然京都にお越しになられた方がいらっしゃれば、是非、御高覧ください。