Archive for 2020.2

ブログ休載のお知らせ。

2020.2.7

しばらくの間、ブログを休載します。今後は不定期連載になるか、媒体を変えるかの予定です。決まり次第、ここで発表します。事務所は稼働していますので、仕事のご依頼はどしどししてください。

孤独の時間。

2020.2.6

今月の予定を考えていると、来週か再来週にまとまった休みが取れそうなことに気がついた。
ぼくは長いこと、一人の時間を過ごしていない。
家では一人で仕事をしているが、お昼前までは妻がいるので、ほぼ半日は誰かといるのだ。
これはぼくにとってみたら、あまりいい傾向ではない。
しばらくの間、孤独の時間を過ごしていないのだ。
 
内省の時間と回数が減り、見通すための洞察力が減り、時間が無為に流れていくことが増えていく。
こうしている中でも、少しずつ仕事を進めたり、種まきを進めたりしているが、密度が低くなっているような気がしている。
数日間か一週間ぐらい、孤独に自分と向き合う時間が必要だ。
一人の時間を持とうと思った。
今日はここまで。

片付け仕事に向いている日。

2020.2.5

やる気のでない日というのはある。
ここ2、3日はそんな日だった。
このブログに唯一のルールがあるとすれば、格好つけずに、正直に書くことなので、今日は「やる気のでない日」について書こうと思った。
 
こういう日でも幸か不幸か、時間は進んでいく。
会社員だとしても、経営者だとしても、個人事業主だとしても時間は進んでいく。
しかし、「やる気のでてる日」のようには進まないのだ。
考え事をしても冴えているわけではないし、筆が走るわけでもない。
だが、当人にとって大したことじゃない仕事なら、淡々と進められるものだ。
やる気のでない日と遭遇したとき、ぼくは淡々と進められる仕事をするようにしている。
 
こういう仕事は、やる気のでてる日には、目もくれなかったり、やりたくないなぁと思うような仕事だ。
機械的に進められる作業仕事であり、経理仕事だったり、クリエイティブ仕事のための準備だったり、ホームページなどの気づいていたけれど手を回さなかったところなどだ。
 
こういった「後回しにされた仕事」というのは、緊急性が高くなく、それでいていつかはやらなきゃいけない仕事だから、放っておきやすいのだが、放っておきすぎると自分を殺しかねない毒となる。
だから、毒となる前に片付けるわけだ。
 
そう、「片付け」というのは、やる気のでないときにやるのが一番いい。
どんなにやる気がなくても、進めれば進めるだけ、終わっているのだ。
考え仕事のように、袋小路に迷い込むことなどないのだから、片付け仕事は達成感もある。
こういう日を諦めるのではなく、ちょっとでもいいから達成感を持って終わる。
ちょっとの積み重ねが、今のぼくの能力になっているのだ。
 
もしも、片付けの秘訣があるとすれば、「作業を細切れにしておく」ことだろうか。
積りに積もったゴミ屋敷の片付けを一気にやるのは大変だが、「今日はここまで終わらす」という作業範囲を決めておくと、途方にくれることもなく、片付けられる。
ぼくは何をするのにもいきなり手をつけることはなく、「どうやって片付けようか」と俯瞰してみて、おおよその目安をつけてから手をつける。
 
ここで大事なのは、二つある。
一つ目は、俯瞰するのはある程度で終わらすことだ。
あまりにも長い時間考えていると、一歩を踏み出すことが怖くなるし、計画通りに進まないことでネガティブな気分になりやすくなる。
これを避けるためにも、ある程度の見切り発車は必要だ。
計画通りに進むことなどないのだから。
 
二つ目は、一気にいけるなら、一気に行くこと。
一つ目と近いが、どんなに簡単なことでも、二の足を踏めば踏むほど、最初の一歩は出にくくなる。
自分にとって大したことないと思われることなら、一気にやってしまうことだ。
どうせやる気のでない日なのだから、やらない理由は見つかりやすい。
こんな状態なのだから、二の足を踏んでいる間に、一日が終わってしまうものだ。
だったら、「やる気はでないけれど、やっちまうか」という態度でもいいから、一歩踏み出すことが大事だ。
 
やる気のない日ほど、発見があったりもするのだから。
足を止めないこと。
流れを止めないこと。
これが、積み重ねになるのだ。

教えるときに必要なもの。

2020.2.4

人に何か教えているとき、斜めの方向から回答をもらうときがあります。
自分が予期していなかった回答や質問。
そういうものがやってきたとき、アリだと思ったら、「それもアリだね」と素直に言うようにしています。
 
ぼく自身、人から何かを習っているとき、斜めの方向にある回答や質問をしてしまうことがあります。
まぁ、これは「習う現場」であれば、当たり前に起きることなので。
このときに、すぐに拒絶や否定をする人もいます。
 
これは教え方の違いでもあるので、この人には自分のやり方があるのです。
こういう現場を何度か目撃して、自分の教え方との違いに気がついたのです。
それで「この違いはどこからくるのだろう」と考えてみました。
ぼくが教えているのは、表面的に見れば「デザイン」「写真」「ビジネス」「交渉術」「コミュニケーション術」などです。
しかし、内奥まで考えてみると「応用力」を教えているのです。
 
高いスキルのデザインを習ったとしても、応用力がなければ、他の仕事に活かすことはできないです。
もっと言えば、教えた内容が仕事に活きることも大切ですが、日常の時間の方が、包括的な人間生活として多くなります。
だから、デザインを教えていても、仕事で活きて、最終的には自分の人生を拓いていくために活かされる内容を教えています。
 
そうすると、時間はかかっても、どこに行っても通用する人材が育つのです。
ここには教える側の根気と器が大事なのです。
活かす応用力は、雑談の中に隠れているものです。
仕事雑談、これを教えるときに盛り込みます。

事業のつくりかた。

2020.2.3

昨日、「あんまり、自分のやっていることを素晴らしいことだとは思わない方がいいです。」と書きました。
これは仕事で会う人に度々言うことでもあります。
 
仕事で人と出会って、その人の事業を説明してもらうとき、必ずと言っていいほど、人は自分の仕事に価値があるように話します。
当然と言えば当然なのですが、これが度を超えると、人を傷つけても平気になっちゃうんですよね。
 
ぼくは福祉関係や地方創生関係の人と会うことが多いのですが、その人たちに顕著に見られる傾向があります。
「反対にあるものを否定して話す」のです。
福祉であれば対象者以外の人や暮らしを否定し、地方であれば都会を否定します。
その上で、自分たちの行いや事業がいかに素晴らしいかを話すのです。
 
目の前にいるぼく(他人)を説得したいのはわかりますが、これではぼくの心は動きません。
むしろ、反対を否定する片棒を担ぐのは御免です。
そして、対岸にあるものを否定しながら話をしている人たちって、楽しそうに話さないんですよね。
笑っていないんです。
表情が強張っているんですよ。
 
こういうとき、ぼくは最初に書いたことを話すのです。
すべてのことは「自分がやりたくてやっているだけ」です。
どんなに素晴らしい事業も、どんなにつまらなそうに見える事業だとしても、みんなやりたいことをやっているだけという意味では、同じです。
苦しい状況、面倒臭い状況を避けるために、つまらない仕事を選んでいたとしても、「避けたい」と思っているのは自分自身なのです。
そういう意味では、人格者も犯罪者も同じです。
これを覆したかったら、機械になるしかありません(AIが欲望を持ったら知りませんが)。
 
自分の事業や行いが価値あるものと思う前に、人を幸せにしているのかどうかを考えた方がいいです。
誰かを傷つけたり、誰かに我慢を強いて、他の誰かを幸せにしていたら意味がないですからね。
みんなが平等に弱者になって死んでいく、そういう世の中は息苦しいでしょう。
すべての営みは、立派なことじゃないんです。
すべての営みは、自分がやりたいからやっていて、だから楽しくて、だから、誰を幸せにしているかが大事なんです。
みんなが平等に弱者になるんじゃなくて、誰も傷つけないで、誰かを幸せにする方法。
これが事業になるのです。