Archive for 2008.10

還元

2008.10.29

創作と支持体の創作。この2作品を同時に発表できたらなぁと思いつつ、どちらの方が「俺っぽい」と言われるのだろうかと考えてみる。どちらも作者は俺で、それは変わらないはずなのに、鑑賞者は作品と作者を関係づけようと働きかけてくる。当たり前といえば当たり前のことだけれども、少し歯痒い気持ちになる。その歯痒さの原因は、作者は作品への単なる媒体でしかない、と考えているにも関わらず、作品を作者へ還元して解釈されるからだろう。とても当然のことのようにも思えるけれども、どこかずれている気がするのだ。

細胞

2008.10.23

昨日撮影したものを現像。2ヶ月振りの現像、しかもプロセス上のことでは久しぶりの動きだったので心配だったけれども、撮影同様、「はじめるか」と身体のスウィッチを入れると身体中の細胞が一斉に目覚める感覚になる。その感覚たちからは「遅ぇよ」と罵倒されるのだが、やはり、闘うことになる。身体の中にある意識とは別の、「あるものたち」が動き回ることになる。先日知った、「南方曼荼羅」の図が思い浮かんだ。「萃点」という言葉の意味が、展示や作品などに関係してくる動きのように受け取れた。どうやらこれからの重要な考えになりそうだ。

ここ2、3日頻繁にかけているのはRe-Trickの『Colors of Agenda』とunkieの『too many secrets』。どちらもインストゥルメンタルのバンドだが、異なるタイプの音楽で、シャッフルしてかけていると別個で聴く時よりも違ったうまみが表れるので、色々と美味しい。

漸く曼荼羅関係の本を読み終え、考察がまとまりそうなので、先日買ったものが読める。原研哉さんの『白』、中村桂子さん対談集『ゲノムの見る夢』、『ニュートン別冊ー再生医療への道を切り開く iPS細胞 人工多能性幹細胞』、そして波平恵美子さん/塚本やすしさん『いのちってなんだろう』。最後のは児童用の本で同名のものを探していたら、先にこちらを見つけ間違いに気付かないまま立ち読みしていたら、途中で間違いに気付いたのだけれども内容がよかったので買いました。こういうことが生じるのが、生物の特徴なのだろうな、と思いつつ、本屋で泣くと店員さんが心配してくるのが少々申し訳ないです、と感じた、昨日のお話。

Happosyu dayo !!!

2008.10.20

出力ばかりで一日が終ってしまった。黙々とやってしまうので、気付いたら外が暗いです、という状態に陥っている。その間、菊地成孔とぺぺ・トルメント・アスカラール、Tokyo Zawinul Bach、toe、The Birthdayがシャッフループされてかかっていた。unkieの2ndが発売されるとのことで、けっこう楽しみだ。

今読んでいる著書は、それほど重要というか要になるようなことが書かれていないかもしれないと予測される。こんな時には速読が役に立つ。

「発泡酒はもう飲まない」と決めていたが、この前の飲み会から何本か発泡酒を飲んでいる。やはりビールが一番です。小学校時代に作っていた「肉天」という豚肉の天ぷらが食べたくなるが、どうやって作っていたかを覚えていないのが悔やまれる。幼いときの記憶は断片的であったり、他者からの話から記憶として誤認している事柄があったりと実は曖昧である。もしかしたらそれは、今でもそうなのかもしれず、「実体」というものの定義とその掴み方を意識する必要がある。「実際に掴む」とはどういうことなのか? その問いは「現実」や「現実感」というものにも繋がってくる問いなのだろう。では、「意識する」とはどうだろうか? それは「思う」ではなく、「考える」ということであり、創作前にも必要になってくると考えられる。

Cardigan

2008.10.18

今週は体調が悪い。鼻炎薬を飲むと少々よくなるがノドの痛みがついてまわるので、風邪だろうと思われる・・・と、分析している場合ではない。

THE BIRTHDAYの『涙がこぼれそう』の中に入っている「レイニー・レイニー」という曲が好きだ。昨日、掃除後にベランダでガリガリ君を食べながら聴いていると、雲の切れ間から現れる太陽の景色と重なり、寂しいけれど透き通る気持ちになっていった。一昨日、友たちと朝四時くらいまで呑んでいて、友に服を贈ったら、別の友の着ていた服を頂いた。丁度、カーディガンが欲しかったので羽織れる服は助かるとともに、けっこうかっこいい。やっぱり最高な人だ。

先日仮題を発表した作品を創作しているときに、「ちょっと足りないな」と思っていると、すぐにその足りなさを満たすやつがやってきてくれて、「そうだよな」と納得する。自分で撮影したのだから当然といえば当然なのだけれども、やってきてくれたという感覚が強い。それは作品といえど他者だからだ。それも闘い、共生する者だ。

日本人の宗教観

2008.10.15

朝からてんやわんやで午前が終わる。そりゃないでっせ、と言いながら、複写と創作。おそらく明日の午前中は『ヒトから人になるために』(仮題)の撮影ができるはず。『四十億年の私の「生命」−生命誌と内発的発展論』を読んでいて、ディヴェロップメントという言葉から写真の現像ということも少々触れており、そのプロセスを「魔法ではない」という説明をしていた。「写真」というのを媒体にして活動をしていらっしゃる方々は、そこらへんのプロセスを一種のメルヘンチックなものとして捉えているが、日本人は宗教の類いを煙たがるくせに、ちゃっかりとメルヘンチックなものは好むという勝手な気質がある。それも効率や割り切ってということは苦手なのにもかかわらず。写真学校時代の卒業論文(とはいっても論文とはあまり言い難い進め方だったが・・・)は、『日本人の宗教観』という内容にし、結論として、「日本人はアニミズム的な宗教観をもっている」という締めくくり方だったと思われる。僕は机や創作での道具類には生命が宿っている、もしくは生命に替わるものが宿っていると考えているのだが、やはり、創作に関わってくると、闘っているのだと感じられる。そこで出てくるのが「共生」ということなのだけれども、『四十億年の私の「生命」−生命誌と内発的発展論』にその言葉がでてきて、かなり驚くのだった。この本には、自分の考えていたことや必要となる言葉たちが頻繁にでてきて、正直、驚嘆させられる。けれども、楽観的性格というのだろうか他力本願気質というのだろうか、藝術や美術、写真の領域にはいないが、確実に今後の日本、世界、地球に必要とされる考え方を持った御方たちがその他の業界にはいらっしゃるということが、「自分はいなくても平気だな」と思わせてくれる。