Archive for 2014.8

言い訳の前置き

2014.8.31

自分は頭が良くない、やったことがない、人それぞれ、努力しているなどの言葉を聞くと「ずるいな」と感じる。
 
何か悪い結果が起きても追究されることがなくなり、良い結果が起きれば褒められる。
 
そのための言い訳を先にされると、周囲にいる人間は何も言えなくなる。それがその人の処世術になっているのかもしれないが、僕にとっては毒にも薬にもならない時間の無駄のような言葉を使われているような気持ちになる。
 
自分にしか出来ないことは見つけることが難しいが、自分のやりたいことに正直になることは、誰でも出来る簡単なことじゃないだろうか。
 
好きなことを目一杯やっているとき、一歩一歩地道に進んでいる、などというような自分を擁護する言葉は、頭をよぎっていないはずだ。

夏のおわり。

2014.8.24

昨日、久し振りに写真家の友人達と呑みました。夕方すぎあたりに、井の頭公園の池の前にいたのだが、これが何とも良い雰囲気だったのです。
 
夏が終る寂しさも、風情として感じることが出来るようになっているんだなぁ、と思いながら、蚊にけっこう刺されているのに、あまり痒く感じない鈍感さ。どんどん、オッサンになっている証拠です。
 
「鈍感というのは、器の大きさと繋がるよね」と、一緒にいた写真家の秦雅則さんと話しました。
 
そう、オッサンの魅力って、いつまでも怒鳴り散らすエネルギーよりも、「ほっ、ほっ〜」と笑える余裕です。

All in life.

2014.8.23

自分の家族のことについて一歩引いて考えてみると、「とんでもないな」と思った。兄貴と15年近くも会っていなかったり、親族が大病を患ったり、持病があることが普通になったり、鬱病からの自殺があったり、養子が面倒を起こして祖父が改宗したり、何かね、みんな幸せなんだけど、もっと、幸せにできないかなって思うんです。
 
そんなふうに思うんですが、考えていくと不謹慎かもしれないですが、「あぁ、もう爆笑するしかないな」という楽しい気持ちになっちゃうんです。
 
快晴の青空の下には、草原も泥沼もあるってもんです。草原を曇天にしたり、泥沼でも快晴にできるのは、その人自身の気持ち次第なんですよね。
 
仕事も生活も同じで、「ダッハッハッハ!」って笑うのが一番だ。
 

偏見の利用。

2014.8.17

ギルバート・オサリバンの「ALONE AGAIN」がj-waveから流れていた。ノスタルジー特集として流しているらしく、「なるほど」と思った。
 
しかし、不思議なことに、僕らは幼い頃にこの曲をリアルタイムで聴いていたわけではないし、好んで聴いていたわけでもない。ドラマや映画などのノスタルジーを感じさせるような場面で、挿入歌として聴いていたと思うのだ。
 
そんな曲が、世代を超えて「ノスタルジー」という意味合いを共有して聴くことが出来る。すると、「今、格好いい」とは異なる意味合いを持って聴くようになっており、これは偏見の総体でもある。そして、この偏見はドラマや映画などの制作者によって、刷り込まれた偏見だということだ。
 
これが物語っているのは、全ての人工的な感覚は作られ、刷り込まれているものが多いということ。
 
僕らが街中で目にする広告や雑誌、映画、展覧会の作品など全て、人間が作りだした意味の約束事の上で成立している。どんなに新しいと感じたものだったり、アウトサイダーなものだったりしたとしても、ある約束事を誇張したり、約束事のタブーを犯しているだけだったりする。
 
これ、何が言いたいかというと、自分が作ったものが完全なオリジナルと言い張るよりも、今は亡き、多くの先輩達が作りだしてくれた意味合いを、どう使って、どう変えていき、新しい意味合いにしていくか——そう考えた方が楽しいんじゃないのってことです。 

自然の中

2014.8.16

先日、師匠から養老孟司さんの『自分の壁』を勧められて読んでみると、自分が経験していたことが、そのまま書かれているような気分になった。彼の著書は、既に何冊か読んでおり、彼のわかりやすく軽妙な書き方は好きだ。今日の内容は、彼の本に引っ張られている気がしている。
 

 
生きる理由なんて本当はないんじゃないだろうかーーそんな考えが頭をよぎることが多い。自然の中に入り、環境が自分で、自分が環境という境界が曖昧になってくると、特にそう思う。
 
環境の一部として自分がいる一方で、環境を認識している自分がいる。具体的な形として示すと、円の中にポツンと点を打たれている状態だ。この点が自分として、点の意識が曖昧になってくると千里眼のように、見えてない先の景色を見ることができる。正確にいうと、見えている景色の情報から見えていない景色の情報を予測しているのだろう。
 
そうこうしていると、自然の我執のなさに包まれ、「木は木であるだけ」、「土は土であるだけ」、「水は水であるだけ」ということの真っ当さから、生きる理由なんて本当はないんじゃないだろうか、という考えが浮き上がってくるのだ。
 
僕も含め、「○○をしなきゃいけない」だとか「人と合わせなきゃいけない」だとか、たくさんの約束事の中で生きており、そういった約束事が、生きなければいけない理由になっている。
 
つまり、他人同士という環境で決められた義務として、生きることになっている。その反動で、自己決定、自己責任という全てが自分自身しかいないような生き方を目指すようになる。
 
しかし、木や土、水と同じように、僕らはもっと大きなものによって、生きることを決められているのではないだろうか。そんな風にして思うと、本当に自分の為すべきことに気がついたり、温かい気持ちになるのはどうしてだろうか。