Archive for 2013.2

傾向

2013.2.28

最近になって気付いたのだが、どうやら僕は「一肌脱ぐ」のが好きなようだ。もちろん衣服を脱ぐわけではなく、行動する基準となるものの傾向の話だ。双方にとってメリットがあって、お客さんなどの第三者にもメリットがあるのが理想だが、そんな理想的な話ばかりではないのが現実だ。
 
けれども数年前から、理想的な状態にならない場合の傾向がわかってきている。それは関わってくる相手が、僕のメリットを常に挙げてきたり、メリットの内容における不確定さが大きかったり、僕自身が決める内容(喜びなどの感情論)であったりする場合である。
 
恥ずかしい話、よく利用されたが、そういう方々が現在上手くいっている話は噂でも聞こえてこないのが因果応報ということなのだろう。いや、そんなことよりも、年齢関係なく数少ない友人達が超強力だというのが嬉しいことでもある。

制作者として

2013.2.27

Webを制作していると「スマフォ用サイト」、「position:fixedのサイドメニュー」が出てくるが、僕が提案・制作する際はこれらを推奨していない。
 
「スマートフォン普及による、パソコン(以下:PC)でのWeb視聴の減少」の対策として、単純にスマフォサイトを用意すれば解決されるというのは媒体に翻弄され過ぎであり、機械に人間が振り回されてはいつかは人間の方が死んでしまう。しかし、単純にposition:fixedのサイドメニューではPCサイトをスマフォで閲覧し、拡大した際にコンテンツに干渉してしまう。
 
広告をしたい商品やサービスが優れたものであるのならば、それに合った適切な形で見せることをした方がいい。過度にプラグインやFlashを使用したり、PCからスマフォへ移動させたりする必要はなく、「本物(商品、サービス)に触れたい」と思ってもらえることが重要なのだ。
 
それはWeb自体も同じであり、スマフォで見た際にわざわざPCの電源を付けさせてブラウザーを立ち上げてHPに誘導させることが出来た方が、下手にあれこれ労するよりもWebが生き残る道が作られる。静的かつ古典的だとしても、性質の整合性と見やすさが高ければ必ず良い結果に繋がる。
 
それは紙媒体や美術作品も同じだと考えている。「生き残る道」と言ったがその言い方には語弊があり、媒体に振り回されずに、媒体の特長を活かす方が良い結果になるという考え方だ。それは、ホログラムや電脳化が完成されて、データを手で触れることが出来て、食べ物の味を感じ、データで空腹が満たされるようになれば話は別だが、普及されるのはまだ先だ。

自然

2013.2.26

白盤更新しました。
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自然の中に入っていると、たくさんの当り前なことを思い出す。陽は暖かく、北風は冷たい。雪が降れば土はボコボコ。天地には逆らえない。それは人間の体も同じ、無理が生じれば必ずしっぺ返しがあるし、体が望むように動かせば良い動きが出来ている。

揺さぶった先の今、希望

2013.2.25

先週は運動をせずに過ごしていたら、心が貧弱になっていくのが手にとるようにわかった。やりたいことがなくなったとしても、それが死ぬ理由へ直結させる必要はなく、体を揺さぶれば揺さぶった先の円が今となり、理由はそれだけで充分だ。揺さぶれば必ずといっていいほど、作品が生まれている。藝術だとしても、クライアントワークスだとしても、体を動かした先に作品が生まれる。それが希望になることも知っている。
 

 
僕は写真で美術作品をつくるし、商業美術であれば印刷物もウェブも広告写真もコピーも僕の領域になる。しかし、どんなに媒体が変わったり、増えたりしても、クライアントなりユーザーなりの届ける人がいるのならば、その人達への愛を中核において制作しているといっても大袈裟ではない。
 
どんな会社かという会社の中身は重要だが、外側の、行政に提出される書類に記載されているもの(社名、資本金、従業員数など)はあまり重要ではなく、打ち合わせをしている人、その会社で働いている人達、広告や商品、中身を届けたい人達が重要だといつも考えている。企業戦士になるための志はちょっとあれば充分だ、それよりも人への愛情が必要だと信じている。
 
そう考えれば、アートもクライアントワークスも同じように見えてくる。

使命を果たしたとき

2013.2.24

いまや文章を書くのも1つの作品をつくるのと同じような感覚になっている。始まりは勢いと直感を頼りに書上げ、その後に推敲を重ねて滞らないような、流れるように細部を調整する。視覚作品と異なるのは、文章は伝えようとする姿勢がまだ強い(言葉の特性上、当り前なのだが)。それが力みにならなければ良いが、先日アップした文章で、ひとまず僕が普段話していることの大半は言い尽くした。「人間はいつ死ぬか分からない」ということについては触れなかったが、それは主旨が異なるだろう、今回は割愛した。
 
そして、こうやって何かを作ったり、話したりというのは「やり残したこと」をなくしていく作業でもあるのだろうと感じるようになった。その量が知覚できるほど減っていることに気付いたのだった。「人は使命を果たしたときに死を迎える」と何度か聞いたことがあるが、本当にそうだろうか? あまりにも辛過ぎる死というのもあるが、それも使命だと言えるのは、死んでいない人達だけだ。ただ、(藝術、クライアントワークス関係なく)作品が完成した際に感じる「魂が減る感覚」があるのも確かだ。そういった時の行動は充足感がある。しっかりと対価を支払ったということだろう。
 
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