Archive for 2015.8

タイプ。

2015.8.30

どうしても規則を守れなくなるときがある。規則を破りたいのではなく、規則によって身動きがとれなくなってしまうようなときだ。そんな時はとてもバカバカしく思うとともに、規則を守る組織の存在も必要だということも理解している。
 
つまり、自分が「どっちのタイプ」かっていうことだ。

和洋同じ。

2015.8.23

昨日、大学時代からの友人に日本酒のお店に連れて行ってもらった。今まで、日本酒というのは目の前に出されたら飲むぐらいの位置だったのだが、「こういうお酒が飲みたい」というこちらの要望に対応してくれると、お酒が身体に合ってくるようになってくる(身体がお酒に合っていったのかもしれないが)。
 
お店の雰囲気も手伝っているのだろうが、ウィスキーの飲み方とも似ているような気がした。醸造酒と蒸留酒の違いはあるが、一口に日本酒やウィスキーといっても、酒蔵や蒸留所によって変化する香りや味。そして、バー(板)や座敷(テーブル)を通して作られていくお店の人とお客の関係。
 
こだわり、気遣い、やさしさ。そういった感覚的なものが溶け合って生まれる空間は、和洋問わず同じだ。人類は似ている。

自然との会話。

2015.8.16

昨日は、墓の近くの手頃な山に入る。近場には観光名所になっている滝があり、人もまばらにいたのだが、一つ道を外れて進んで行くと人は全くいなくなった。カメラを持って、山道に入るのは久しぶりだ。シダが生い茂るように、ここは湿度が高い。汗が噴き出ているにもかかわらず、喉が枯れていかない。
 
一人で進んでいると、山の中がちゃんと生きていることに気がつく。木も草も土も虫も川も岩も、、、その形があって生きていることに気がつき、自分はたまたま人間の体をもらっていることを理解する。
 
人々の社会の中に生きていると、単なる約束事でしかないことが命のやり取りのようになってしまっていることがある。人の世の中は所詮はその時代、文化によって変化するもの。ある種、この社会の中のことの方が、固定的で有限的な物事のように思えてしまう。
 
この体、この魂は、自然物なのだ。そうと気がつけば、一人の不安よりも、自然と呼応していく未知のワクワクが勝ってくる。単純に、ワクワクが足りていなかっただけなのかもしれないが。

ゼロ。

2015.8.9

新しく出来た画材屋さんに行った帰り、ふと駅看板に目をやると、カメラメーカーとして認知されている会社の看板が目の前に現れた。それはグループ会社であり、会社名を読んでいるとIT分野や医療分野であることが想像できた。
 
カメラという、テクノロジーの恩恵にあやかる分野であるため、会社として社会の生存競争からは逃れることはできない。カメラから得たノウハウを横展開してグループ会社を立ち上げることはできただろう。
 
話を単純化し過ぎてしまったが、僕が言いたいのは「創業者はこれを望んでいたのか?」ということだ。
 
僕でいうと絵を描くこと、物を作ることを与えられ、それが好きになり、それを続けてきた。すると大なり小なりの評価を得て、競争が始まり、賞賛も嫉妬もあり、生き残るための作法もそれらしい振る舞いも覚えさせられる。そして、この繰り返しとなった。
 
何かが違う。
 
好きだったことは、いつの間にか心に闇を生む行為となり、続ければ続けるほど闇が大きくなり、暗室作業中に倒れた。だ〜れもいない暗室電球の中で目がさめると、何ともアホらしい気分になり、好きだったことを思い出すようにしていった。
 
そんなことがあってから片手では数えられなくなった年数が経ち、こんなことを何度か繰り返しては藝術の神サマに導かれるようにしてゼロに戻ってくることを繰り返している。吸収していることもあるから、完全なゼロじゃないが、それが出来たのも一人でいたからだ。
 
我儘な話だろうが、他人の人生まで世話ができるほど面倒見はよくない。誰にでも自我があるし、創作で手一杯だ。創作をして、発表のことをいちから考えるなんて俺にはできない。だが、目の前にある駅看板にならぶ会社名にいる人達はそうじゃないのだろう。「彼らはゼロに戻ることは、不可能と思うのだろうか」そんなことを駅看板を見ながら疑問に思った。

有意義とは。

2015.8.8

祈りという行為に自分を預けたくなるときもある。自分が選んだ後も、自分が選ぶことができなかった頃からの因果かと空を仰ぐこともある。海外に行こうと思ってチケットを探してみると既にないところが、自分の魂で何とかするしかないのだな、と諦めがつく。
 
自然の音を聞き、風を感じると「それで十分だ」と思う。自分の命がこの先、何十年も続く約束などなく、たとえそんな約束があったとしても、私にとっては、寿命を使いながら作品を作れることの方が重要なのだ。たとえこれで死んだとしても、この感覚がない動きの方が、とてつもなく退屈で死にそうになる。退屈なのだ。