Archive for 2009.2

藝術家の信用度

2009.2.26

展示用の出力の追い込みもようやく一段落つき、後は梱包と配送、そして当日の出力分のみ。

ある企画のために創作される作品のデータを受け取るまでは、その他の作品に取り掛かります。
それを受け取ったらつきっきりになることは十分予想出来るので、今のうちに別のことをしていなければならない。けれども、これはかなり楽しみだ。

最近、DMが届き始めたことも重なって、嬉しい言葉や激励の言葉をかけていただく。本来、藝術家の信用度・価値なんていうものは、作品を創ることのみで良いはずであり、けれども昨今では創作とは関係のないことを信用度・価値を計る尺度にしているように思えて仕方がならない。最近では僕が作品中心に物事を考えていることを知って頂けていることがあるようで、会話においても、活動においても多くの人にかなり助けてもらっている。

それならば、そろそろその決意を表明し、作品への創作と展示などの活動に今まで以上の畏れと責任感を抱く時が来たのでは、と思い、DMに同封したステイトメントが生まれたのです。

これだけでは語弊が生じやすいかもしれませんが、作品と作家が動くことによって皆が考え、行動に移すことになれば幸いです。

日常という名の作品

2009.2.25

「日常について知りたい人がいるかもしれないよ」との言葉を受けたので、日常のことを書こうと思っている。

日常というと、僕は大抵、作品を創作していたり、それに付随するようなことをしている。ストレッチや料理もそうだが、ベランダで惚けていることも作品に関わっていることがほとんどだ。
昨日は少しギャラリーを周り、最後にMAYAというギャラリーで開催している遠藤拓人さんの個展「侘助」を観に行き、その後、拓人さんとさし呑みに韓国料理屋にいく。分野は違えど、つくる領域で働いている人で、2、3年ぐらい前に出会った。それでも酒を飲みかわしながら話すのは初めてであり、僕は少しばかりの緊張感を抱きながらと間合いを計っていた。けれども、ある程度いい歳の成人が話しているので、より語弊がないように伝えることを考えながら話をし、且つ、そこで生まれた時間というのが、僕には意義があった。度々、脱線をしながら、その遠回りも作品の話に還ってくるので、僕にとってはやはり、作品に関わる日だったのだ。

「日常のことを書く」と述べながら結局は作品に戻ってしまうことが、「作品に支配されている日常」というのであれば、僕はそれでも構わないとさえ考えている。「作品から離れる時間が必要なんじゃない?」という言葉を掛けて頂くことも稀にあるし、自分でもその時間が必要かなと思うこともあるが、それで実際に別の仕事を入れ始めても、それは作品のためになってしまうので、やはり、どう動こうとも作品に支配されているのかもしれない。おそらく、その状態を不愉快に思わない限りは。

今は作品を信じているからこそ、このような生活態度になってしまうのだろう。このブログから作品とは関係のない日常を知りたい方がいらっしゃるのであれば、少し申し訳ないです。

※ 遠藤拓人さんの個展「侘助」
  ギャラリーハウスMAYA(北青山)
  2月23日(mon)〜28日(sat)
  詳細: http://takuzoh.jugem.jp/
  オリジナルストーリーのお話に絵を合わせた個展です。
  僕は「二人の侘助」が好きでした。

美しい作品が根底にあって・・・

2009.2.22

やはりここ2週間、いや、1ヶ月ほどひっきりなしに人と会っている。それは昨年末から怒濤のようにそうで、しかも初対面の方々が多い。すると、僕の活動理念のようなものを毎回話すので、自分の中ではその行為が繰り返されている。しかし、「繰り返されている」とはいったものの、実際はその中で今まで気付いていなかった事柄などにも視野が深まったりされている。

だから初対面よりも2回目、2回目よりも3回目の方が、深まって行く速度が上がっている。この怒濤のような日々の中、「もう一度会いたいな」や「今度はさし呑みで会いたいな」という人や、「あの人たちにこの人を紹介したいな」と思える人たちがいる。

今はDMに同封しようと思っているステイトメントを印刷しているのだけれども、「100枚ってこんなに(時間が)かかったっけ?」と思いながら、この文章を書いている。

閑話休題、そのような人たちと邂逅する機会が年々増えているので、今後も楽しみに思えてしまう。そこには、作品という根底があって、尚且つ、「美しい作品」を創るという責任と畏れを増幅させるのだけれども、この「責任と畏れ」によって緊張感を保ちつつ、楽しむことができているのだろうと考えている。

教育の場

2009.2.17

ここ数日、展示をいくつか見ている。その最終日、鳥が真ん中に鎮座しているテーブルの居酒屋で友人たちと呑みながら、話をしていた。そこででてきた話題の1つに、「ピンキリ」と「教育」ということ。キリの人たちがいなければピンとされる人たちが生まれることもないが、キリの人たちの底上げをするためには、教育が必要だということでもある。

小・中学校までは美術の科目や音楽などの科目から、たとえ初等教育だとしても美術と藝術について古典的なものから触れることとその技術的なことを学べる場所がある。それが、普通科の高校に入った途端にアートと呼ばれる、何でもありだが陳腐なカルチャーがとってかわる。何故教育が必要かというと、底上げが、ピンの方々が生まれる底上げにも繋がり、結果、その業界自体の底上げにもなるからだ。また「氾濫」という言葉が日本語にあるように、エントロピー概念を挙げなくても、われわれは価値が低くなる状態のことをわかっているのである。

いくつかの企画が始まりつつある中で、自分が活動することへの想いと責任を改めて感じつつ、今日はいくつかの文章を書いていた。

※ 新宿にあるcountzeroというbarで三木善一さんが個展をしています。月末までで、http://countzero.jp/から詳しい内容とインタビュー動画を見ることが可能です。是非、観に行って作者の方とお会いすることをお勧めします。

視認できない大切さ

2009.2.13

最近、今までの作品をまとめて見て頂くことが何度かあり、その度に似たようなことをおっしゃっていただけるので、自分の歩んできた道が“ある側面”では誤りではなかったのかもしれないと思った。

このような(“ある側面”)言い方をすると、そんなのは当たり前なのだけれども、自分が大事にしていた心持の面が他者の口から現れてくると、作り手としてはやはり嬉しいものだ。

たとえば、今日は一日、PCで創作をしていたのだけれども、最近の手法とついこの前までの手法が上手く組み合わさって進んだ。ちょっとしたことなのだが、日々の積み重ねが昇華のための基盤になる。高く飛ぶためには翼が必要、翼をつくるためには一枚一枚の羽(羽毛)が必要、その羽を作っているのは、視認できないほどの細胞であり、日々の積み重ねは視認することができないで流れていく。

それはPCを用いようが、筆を用いようが、カメラを用いようが、どんな媒体のことでも当てはまる。

必要なのは意識して動くこと、作品に向かうことだろう。