Archive for 2019.1

職業寿命を伸ばす。

2019.1.31

感傷的とも違うが、心身の身体の方が色々、ガタがきている、とは思う。
人生をマラソンに喩えることがあるが、走ってゴールを目指す身体ではないことは、自分でもわかる。
散歩のように歩いて、休んで、また歩く。
身体のメンテナンスも、速く走るためではなく、歩ける身体にするために必要なことだ。
異常な速度での成長は、ちゃんと身体にも異常がでるということ。
 

パターンで仕事をすることに抵抗があるので、毎回新しいことに挑戦してしまう。
まさか、ここまで手書きを増やすとは。
そういう案件と出会えたから、こうやって試せる。
なんてラッキーなんだろうか。
 

クライアントワークの基本は依頼人がいなければ、ぼくらは仕事にならないということ。
身体の方が先に参ってしまうのか、依頼がゼロになるのが先なのか、わからないけれど、どんな状態になっても、自分の限界を超えられる仕事が舞い込んでくるのは、とても嬉しいこと。
よっしゃ、仕事も、仕事をするための身体のメンテナンスも、がんばろ。

3センチのずれ。

2019.1.30

不健康は仕事をなくす要因になるから、体調不良は言わないようにしているが、ギックリ腰のように動けなくなっちゃうと、どうしようもない。
取引先にも、今週は作業できない旨を伝えた。
 
一夜明けて火曜日の朝、歩けるほどの痛みになったので、整骨院で診察を受けたらびっくり。
骨盤が3センチずれてるらしい。
妊婦が出産で骨盤がずれるときと同じだと。
知らない間に、子どもを産んでいたとは。
いや、産めねーし。
 
こういうやりとりができるほど、不思議と、今回はへこんでいない。
扁桃腺炎の後にギックリ腰だから、いつもの俺だったら、けっこう心のダメージが大きいはずだが、そうでもないのだ。
 
まぁ、しょうがないな。
なるようにしかならん、という気持ちの方が強い。
これって、経験だよなぁとも思うんですよね。
動けないときは、しようがない。
経験を積むと焦らなくなるが、こういうときも同じなんだろう。
ということは、それだけ、突発的な病気や怪我が多かったということ。
あまり褒められることじゃあないな。
 
休むときは休む。
動けるようになったら、がんばる。

ギックリ腰。

2019.1.29

ギックリ腰になった。
朝の歯磨きで歯をゆすぐときに、咳をした瞬間だ。
ヤバイ、と思うのと同時に痛みが走った。
もう何度目かなので、慣れているような、けれど、痛いものは痛いので避けたい気持ちはある。
こんなときにはシリアスになるよりかは、どうでもいいことを考えたくなるが、「未来を分かりたいか?」という問いかけをされたら、「ギックリ腰になるタイミングを知りたい」とは言うかもしれない。
先週、風邪をひいたときもそうだ。
「このままだと風邪をひくぞ」ということが分かると助かる。
残念ながら、風邪やギックリ腰に、人生の趣を感じるほど、ぼくは感受性が豊かではない。
「苦しみを乗り越えるから人生は楽しいんだ」なんて立派なことも、ぼくは言えないし、そんなことを言えるのは、本当の苦労を知らないからだ、とさえ思ってしまう。
子どもの頃からの持病経験もあって、経験しなくていい苦しみは、経験したくない性分だ。
そんなもんで苦しむぐらいなら、さっさと死にたいとさえ思っている。
そういうときの「生かしたい」というのは他人の欲望だ。
他人の欲望のために、自分自身は生きているのではない。
どうやらシリアスな方向になってきたので、舵を切ろう。
風邪とは違うのは、意識がはっきりしていることだ。
だから痛いし、暇だ。
仕事もメール対応ならできるが、横になりながらだと、できることはそれぐらいしかない。
電話をしながらメモを取ることもできないのだ。
今月は全然、稼いでいない気がするなぁ。

ぷりぷり怒られた。

2019.1.28

怒られた、妻に。
ブログを読んだ妻が「片付けない人として思われるじゃない」と、ぷりぷり怒ってきた。
ということで、ぼくは謝るのに加えて、妻のご機嫌取りをすることに。
心中どれだけキレているかは本人以外知る由もないが、ぷりぷり怒っているところが流石だ。
たぶん、ぼくであれば怒髪天だっただろう。
 
そんなわけで、ぼくは生まれて初めて「お詫びブログ」というのを書いている。
妻は汚し下手ではないです。
むしろ、普段は綺麗好きです。
言えば、ちゃんと直してくれます。
寝起きが弱いぼくの代わりに、朝ごはんの支度までしてくれています。
ここまで書いていて、ふと気づいた。
もしもこの先、妻を登場させるのを許可制になったら、どうなるだろうかと。
たぶん、登場しなくなるだろう。
「〇〇しなければならない」ことでない以上、許可を取る手間は、思いのほか負担になる。
 
車の運転免許もある意味で、運転して良いという許可だ。
この許可が欲しい人は、運転しなければならないから、わざわざ試験会場に行き、試験を受ける。
試験に合格したいから、講習も受ける。
全部、お金を払って。
ぼくが車の運転をしないのに、免許の更新に行くのも、「使い勝手のいい身分証明書をなくしてはならない」や「もう一度試験を受けたくない(講習に通いたくない)」という意思がはたらくからだ。
もしも、これらの理由がなくなったら、ぼくは更新に行かないだろう。
 
話を戻すと、妻の登場が許可制になったら、妻とのネタが必要不可欠な鉄板ネタにならない以上、登場しなくなるわけだが、世の中のほとんどのことって、こういうことだよなぁ、とも思う。
 
仕事における上役への許可。
ほんとうに必要なものって、案外少ないものだ。
 
少年時代、たばこやお酒も、嘘でも本当でもいいから「親から買い物を頼まれた」と店の人に言えば、普通に買えた。
当時、親父からたばこのお使いを頼まれたとき、ちょっとわくわくしていたような気もする。
大人のアイテムであったたばこを、知り合いのタバコ屋に買いに行く。
店の人も、ぼくが何をしに来たのかわかっているので、品を出し、お金を受け取る。
こういうことは日常にあった。
大人の役に立つ経験は、ちょっとした冒険でもあった。
たばこの販売が、年齢による許可制になった現代では、ほとんど見られなくなった光景かもしれない。
 
少年時代における、大人の世界というのは、いまでは考えられないような未知の世界だった。
だから、必要以上に大変そうに思ったり、魅力的に映ったり、都合のいいように思い巡らせていた。
その橋渡しが、「お使い」にあった。
 
親子関係が近くなったいまでは必要のないことかもしれないが、「未知」であることは、わくわくすることでもあるんだよなぁ。
(この記事は、妻の許可をいただきました)

詰めない。

2019.1.27

よかった、と思った。
数日前から読んでいた『雪と珊瑚と』を読み終えて、まずはそう思った。
 
いくつもの親子という関係性がこの中にはあるが、ぼくがひたすら感じていたのは、「甘える」という関係性だ。
小説の中で「そこまで依存できない」という言葉が出てきたが、甘えるには、甘える相手に対して、身を預けるような覚悟が必要になる。
「お願い」や「依頼」には、ダメ元で、というのが入り込む余地があるが、「甘える」が成し得ないと、大きな拒絶のように見えてしまうものだ。
 
子どもが親に甘えることができないと、怒り、泣いたりするのは、それがダメ元ではないからだ。
そして、行為としては「お願い」であっても、そのお願いの中には「甘える」要素が含まれている。
だから、どんなときでも主人公の女の子は甘えてきたじゃないか、と受け取られる側面もあった。
本人の意思とは関係なしに「悲劇のヒロイン」を勝ち取ってきたようにも見えてしまうひっかかりを、敵意として指摘する人物がいたことにも、ぼくは救われた。
 
ただ、余裕がなかった人生を歩んできたのは確かだろう。
そういう人が、どこかのタイミングで、張り詰めない人間関係を頼って生きていく術を手に入れるのは悪いことではない。
どこかで人は、頼られると嬉しいものだ。
けれど、頼る方も頼られる方も、このあり方を把握していないと、緊張して、張り詰めて、不信感を抱き、相手を怒らせる。
 
そして、どうしても、ウマが合わない人はいる。
そういう人からは、何をしていても目障りに見えてしまうものだ。
どちらかが善人で、どちらかが悪人、ということもないだろう。
 
張り詰める、ということを考えていて、自分のことを省みていた。
力強さは欲しいけれど、張り詰めるっていうのとは違うよな。
思い詰める、根を詰めるもそうだけれど、詰めても仕様が無いことだってあるもんだ。