Archive for 2014.11

自然と人類の関係。

2014.11.30

最近、満天の星空を見ていないことに気がついた。山の中で星空を見ていない。危険を孕みながらも、見蕩れてしまう絶対的な美。感動に震え、自分のやっていることが、どれほどちっぽけなものであるのか——あぁ、ここに近づきたかったという気付き。
 
僕達、人類は何に憧れてきたのだろうか。スーパーヒーロー、神などいるが、その根源的な部分では自然だ。自然の圧倒的な巨大さ、暴力性、そして美しさに僕達は心を動かされてきたのだ。
 
その憧れが薄れる時、人は全知全能だと思い上がり、数多くの失敗を繰り返してきた。戦争、公害、虐待など数え切れないほどの冒涜が僕達の歴史でもある。 
 
そうならないためにも、星空を見ようと思った。

ループ。

2014.11.29

いつか、本当にいつか終わりがあるとしたら、それを「死」と呼ぶのが一般的だろう。だが、「ALL YOU NEED IS KILL」という話の中では、死ぬとその日の朝に戻り、ループしてしまう。死ぬまでの記憶はループをしても残っている。
 
もしも、そんなことが起っているのなら、終わりのない今日を生きることになる。しかも、殺されて最初に戻るのだ。戦場という場面なので、あの手この手を試して、ループを抜け出す方法を探るが、これを僕達の生活に置き換えて考えて見ると「仕事」だ。
 
終わりがなく、永遠と同じように見える作業を繰り返していると人は精神を病む。辞めることを選ぶ人もいるが、死ぬことを選ぶことによって、終わりを作ろうとする人もいる。
 
しかし、劇中のように、終わりのない世界にいたとしても、どうにか工夫して、変化をつくり、別の生き方をつくろうとする人もいる。どちらが正しいかというのは、一概には言えないが、それでも人間は変化がなければ生きていけない生物だということは明らかなのだろう。

孫を見る目。

2014.11.24

久し振りに山へ行き、川辺で酒を飲んでいた。その帰り道、河原で遊んでいる家族連れを何組か見かけ、しばらくの間、眺めていた。
 
一組は、3世代の家族で、2〜3歳児くらいの男の子の孫を除いて女系家族だった。男衆は家で酒でも呑んでいるのかもしれない。もう一組は、3〜4歳くらいの女の子の孫と祖母の二人だった。
 
どちらも、子どもを愛(め)で、孫を愛でているのが、わかる。それと同時に、「あぁ、こういう世界を守りたいんだ」と思ったのだ。当り前にあるような日常、誰かが誰かを慈しむことで生まれる日常だ。
 
それにしても、僕の祖父母もそうだったが、どうして、戦争なんて悲惨なものを経験して、あれほどまでに僕らに優しく出来たのだろうか。厳しい部分もあっただろうが、それでも、無償の愛で守られているような気持ちがあった。戦争が悲惨だったからかもしれないが、それでも、そんな時代があったのを僕らが忘れそうになるほど、孫を見る目というのは、あんなにも慈しみがあるのだろうか。

動きから始まる。

2014.11.24

『インターステラー』を観ました。宇宙だとか、人類を救うとかの話というよりかは、親子の愛の話で、ハッピーエンド(と思えました)に持っていく手腕は、さすが、映画好きな監督だと思った。
 
人にはたくさんの「守る」ということが存在する。劇中に出てきたように、子、仲間、人類。それに友達や家族。人間の集まりである会社や国であったり、人の想いの結晶である企画なんかも、守る対象になる人もいるだろうし、権威などに派生して守るものが増える人もいるだろう。
 
僕には子どもがいないが、親が子どもを守ろうとする力は、群を抜いてとても強いように思える。僕が子どもの頃に病気になった時、送り迎えをしてくれた母。家から遠い入院先に、見舞いに来てくれた祖母。仕事をし続けた父。それぞれに想いがあり、それぞれの役目を全うしていたように感じるのだ。20代も中頃になり、それがわかった時、「あぁ、守られていたんだなぁ」と深々と感謝したのだった。
 
そんな家族の「守る」ことと同じように、子どものいない僕は、仲間や友人、社会を守ろうとしている。そして、守るということには、「変える」ことで結果、守ることが達成されることもあり、変えるためには、「動く」ことが前提になる。
 
『インターステラー』でも、動くことから始まり、未来を変え、子どもを守った。同じように、僕らは動き、社会の雰囲気を変え、次の世代を守ることを選んだ。

鈍化。

2014.11.23

記憶になってしまえば、昨日も、十年前も同じになってしまう。たくさんことが事実のように思えて、嘘のようにも思えてくる。だからこそ、大切な人の別れも、恨みつらみの経験も全てが小事のようになってくる。
 
お昼に1,200円を超えるパスタを食べ、夕飯に300円に満たないパスタを食べた。不思議とどちらの味も美味しいとは思えず、そうすると、300円で良いように思えてくる。
 
不思議なもので、だからと言って300円のものを食べ続けると、そういう舌になってくるのだ。1,200円が上等とは言わない。だが、それだけの金銭を払うだけの価値がある味でもあったのだ。いや、場所代に金を払ったということだ。それが対価だということだが、いやはや、本当に美味しいものをじっくりと堪能していない。
 
最近、性欲が極度に低下している理由と関係があるのだろう。先月のぎっくり腰から、運動を控え、美味しい食事を堪能することがなくなったことと関係があるのだろう。