Archive for 2012.8
2012.8.29
白盤更新しました。
こちら
白盤更新しました。
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おっちゃん、おばちゃん、知人、友人、初見などなど
2012.8.27
昨日、深夜0時を超えた頃に帰宅し、今朝は滞っていたメールの返信などからスタートしている。越後妻有滞在中は携帯電話の電波がなかなか届かず、電波が入っても触る余裕がなかったりと、携帯電話はほとんど機能させていなかった。
さっき道を歩いているときにそのことを考えていたら、大学時代にしていた旅では携帯電話を自宅に置きざりにしていたことを思い出したのだった。戻ってからは面倒臭いけれど、大体、半日もあれば滞っていたものは落ち着く。そのような状況下では、会っている人との会話だったり関係に集中が切れないで済むので、「たまにはこういうのもありだな」と思ったのだった(常時だと大変だろうけど)。
そして、どんなことでも良いから、やっている仕事に対して懸けている人達や、どんな場所でもいいから、他人を迎え入れてくれた人達への礼節はとても大切だと思っている。そんな人達と何をやって、何を考えているのかという話をしている時、相手を問わず僕は楽しんでいた。
最後に、食べたもの全部美味し。ありがとうございます。
昨日、深夜0時を超えた頃に帰宅し、今朝は滞っていたメールの返信などからスタートしている。越後妻有滞在中は携帯電話の電波がなかなか届かず、電波が入っても触る余裕がなかったりと、携帯電話はほとんど機能させていなかった。
さっき道を歩いているときにそのことを考えていたら、大学時代にしていた旅では携帯電話を自宅に置きざりにしていたことを思い出したのだった。戻ってからは面倒臭いけれど、大体、半日もあれば滞っていたものは落ち着く。そのような状況下では、会っている人との会話だったり関係に集中が切れないで済むので、「たまにはこういうのもありだな」と思ったのだった(常時だと大変だろうけど)。
そして、どんなことでも良いから、やっている仕事に対して懸けている人達や、どんな場所でもいいから、他人を迎え入れてくれた人達への礼節はとても大切だと思っている。そんな人達と何をやって、何を考えているのかという話をしている時、相手を問わず僕は楽しんでいた。
最後に、食べたもの全部美味し。ありがとうございます。
明日にちなんで映像の話(映画だけどね)
2012.8.24
『十二人の怒れる男』(監督:シドニー・ルメット)を観ていた。ほぼ1つの舞台で観客を魅了させる台詞回しや演出、秀逸過ぎる。何度観ても勉強になるし、脚本を読んでみたい。
作品は変わり、今月初旬に『ダークナイト ライジング』(監督:クリストファー・ノーラン)を観たが、僕はこの三部作が好きだ。物語としても、映像としても好きであり、(好き嫌いとは関係ないが)かなり古典的に作られている。セットを組み、エキストラを集め、進行人物の視点でカメラが進む。三作目の『ダークナイト ライジング』に至っては、IMAXフィルムを使いまくり、DVDやBDのホームシアターで観たり、小さな映画館で観るのには勿体ない映像だ。
僕は、この2つの映画は「限定的」という意味で似ていると考えている。前者は、いわずもがな限定された空間と人物で約90分進んでいく。後者は、映画をつくるための道具と人間の使い方、そして完成された映画のクオリティを存分に発揮するためには、映画館のサイズが求められるということ。
マルチカムで撮られ、CGを多分に使用しているのも、頭を空っぽにして観るときにはとても好きだし、そういう一見すると無制限な作り方が製作における「現代的」と言えるのだろうが、脚本の素晴らしさを感じるのは「古典的」に作られたものが多いような気がした。
『十二人の怒れる男』(監督:シドニー・ルメット)を観ていた。ほぼ1つの舞台で観客を魅了させる台詞回しや演出、秀逸過ぎる。何度観ても勉強になるし、脚本を読んでみたい。
作品は変わり、今月初旬に『ダークナイト ライジング』(監督:クリストファー・ノーラン)を観たが、僕はこの三部作が好きだ。物語としても、映像としても好きであり、(好き嫌いとは関係ないが)かなり古典的に作られている。セットを組み、エキストラを集め、進行人物の視点でカメラが進む。三作目の『ダークナイト ライジング』に至っては、IMAXフィルムを使いまくり、DVDやBDのホームシアターで観たり、小さな映画館で観るのには勿体ない映像だ。
僕は、この2つの映画は「限定的」という意味で似ていると考えている。前者は、いわずもがな限定された空間と人物で約90分進んでいく。後者は、映画をつくるための道具と人間の使い方、そして完成された映画のクオリティを存分に発揮するためには、映画館のサイズが求められるということ。
マルチカムで撮られ、CGを多分に使用しているのも、頭を空っぽにして観るときにはとても好きだし、そういう一見すると無制限な作り方が製作における「現代的」と言えるのだろうが、脚本の素晴らしさを感じるのは「古典的」に作られたものが多いような気がした。