Archive for 2013.7

未来の体

2013.7.31

昨日の今日でアレですが、体が動かなくなるときもあります。「足の感覚がおかしい」、「腕が痺れる」など微小な不調をどうするかということが、これから歳を重ねる課題にもなってくるのでしょう。体を作るってことは、年齢を考えるってことでもあるのだな、と思いました。そして、年齢を考えるってことは同時に、未来を考えるってことだな、と気づきました。作りたいものがあるからね。

体の、、、

2013.7.30

限界はどこにあるんだろう、と不思議に思いました。365日朝から日付が変わっても仕事をして、考えたり、動いたりしています。そんで運動もして、飲みに出かけたりもします、、、いつかバタっと倒れる日が来るのかもしれませんが、何かね、どうしようもなく楽しいんです。

その理由はやはり、成長を感じているからでしょう。人生において、これほど楽しいことはないです。作品つくるのだって成長が楽しいんです。体のキツさ、怪我、色々ありますが、うまく付き合っていくしかないんですよね。楽しさを知っているんだから。

終わりを考えること

2013.7.28

紀里谷和明さんの短編を観ていて、「あぁ、本当にそうだ」と感じました。主旨は違うかもしれませんが、空がこんなにも青いというだけで僕は幸せになります。以前にも話しましたが、僕は自然の中に入ると、ただ寝そべって何もしません。食料が欲しいときは食料を探しましたが、今のようにその日の内に帰ってくる場合は、寝そべっているだけです。
 
人間が作った社会システムや偏見、「こうじゃなきゃいけない」という思い込みや恐れの総体を相手にして、せめて自分よりも若い人達が馬鹿みたいな苦労と遭遇しないで済むような社会にしたいと動き、話していること。けれども、自然の中に帰ると「こちらが自分の終の住処だ」と再認すること。
 
どちらも真実ですし、いつ死ぬかわからないのが人生ですが、終わりを頭の片隅に置いておくのは、順序立てて今を考えることができます。
 
真面目風だったり、取り繕ったりすることが日本の世の中を流れるのに適しているのでしょうが、でもね、終わりを考えないでいると、裏で批判をしているイエスマンの完成でしょ。だったら、ちょっとした時に、終わりの瞬間、どうありたいか、どういう自分でいたいか、どういう社会にしていたいか、を考えても損はないはずです。

そっと置いとく

2013.7.27

「ふふふ」だとか「へへへ」だとかっていう種類の笑いがあります。僕が予想する限り、照れ混じりだったり、機微による和みがある場合に出てくるでしょう。

また「こうじゃなきゃいけない」、「あぁすべきだ」っていう時には出てこない笑いでもあります。

そして、今の日本が後者の小さな笑いが出にくい社会だということも、みんな気づいているでしょう。

そのことと関係があるのか、批判や罵倒、叱咤激励では僕は動かず、悲しみでは動いているかもしれないと思いました。

仲間の不安を減らしたかったり、喜ばせたかったりするのも、悲しみをそっと置いといて、笑顔を見ることができるかどうかが社会に留まっている理由かもしれませんね〜。

やっばいな〜

2013.7.27

「仲間を悲しませちゃいけないな」と思いました。怒られたり、説教されたりなんてことじゃ、僕には響かないことが多いのですが、自分のしていることで相手から悲しみの匂いを感じると、響きます。
 
笑って死ねる自信と、生き切った感、そして「やりたいことをやる」という意識で動いているため、他の人達、特に仲間や近しい人達に心配してもらうことが多いのですが、その中でも「悲しみ」を抱かせてしまうことがあります。なぜ、そこで響くかというと、「悲しみ」はわざと発信する(言う)ものではなくて、本人が気付かないほどの微量が漂ってしまうものであり、確実にその人は「悲しみ」に心が倒れたことがある人でもあります。
 
そこから立ち上がるのは容易なことではありません。
 
にも関わらず、僕の言動で悲しみからの心配をさせてしまうのは、僕は酷いことをしたということです。それでも、僕の「やりたいことをやる」、「楽しくなっちゃう」性質はなかなか変えることができません。なので、上手い折衷点を見つけようと思いました。休んでいる様子を見せるとかね。