Archive for 2011.8

畑は違うけれど、同じ平等性

2011.8.26

 昨日は畑違いの人達と飲んでいた。畑違いであろうとなかろうと、「人間の話」が出来る人と話をするのが好きだ。好きというのは、生産性のある会話が出来るということであり、反面教師的に生産性を生み出さなくて済むという意味で好きなのだ。何故か知らないけれどこの世に生まれ、生きることを強いられ、いつの間にか死んでいる。生まれては死ぬというのは、全ての人間において平等であり、有生・無生問わずに、有形・無形問わずに平等であり、万象一切は生まれて死ぬ、朽ちる。そこで、自分が「どう生まれ、どう生き、どう死にたいか」ということへの考えについて話が出来る人と会っている時が、好きだ。
 
※ MP1で9月1日からFFLLAATTで展示をします。何卒、よろしくお願いいたします。
 
※ 新・港村でも載りました。こちらもよろしくお願いいたします。
 
MP1のウェブサイトです。よろしくお願いします。

草稿

2011.8.21

 現在手掛けている作品に、今まで培ってきたものが集結していることに気付いた時、地に足着いて進んできたことへの嬉しさ反面、悔しさ反面・・・いや、半分以上が苦笑が漏れる悔しさだ。粒状性、明暗、色彩、筆遣い、デジタル技術・・・心地良い苦笑いだな。Your smell is like a sun.(朝起きた時に隣から放たれる臭気を愛でることができるのだろうか?)

よく歩いた日、歩き始める人達

2011.8.14

 昨日はニュートロンさんに伺ってから、友人の開店パーティへ。待ち合わせ時間に余裕があったので、行ったことがない神宮外苑を散歩しようと思った。そうしたら、思いのほかお店が並んでいながら閑散としており、仕方が無いので道路沿いの腰掛けスペースに座って読書に耽っていた。ちょうど良い時間になったので、神宮外苑から青山一丁目駅に向かって歩き始めたら、、、なんと、「神宮外苑」の看板と公園らしい雰囲気を醸し出している場所が現れ始めるではないか!? そう、今まで僕が「へ〜、ランナーが多いって言っているけれど、こんな所で走れるなんて、都会人はけったいな生き物だねぇ」なんて馬鹿にしていた場所は、どこかの商業スペースだったのだ。とほほ。
 
 けれども、電車にはぴったりの時間で、いざパーティへ。バルが流行っている昨今の事情と比較すると広い店内には人が溢れており、お祝いムードとバタバタと陽気さが合わさった熱気が充満していた。出来立ての内装はまだ馴染んでおらず、それが少しずつ手垢が付き始め、仕事の歴史が刻み込まれて行くのだなと感じると、こちらの方まで心が躍ってくるのだから面白い。生来の出不精から森下へはなかなか行けないと思うが、落ち着いた頃に言ってみようと思った。お店の名前は「Bremen cafe」。
 
 そんな訳で、白盤も更新

引用文間違ってるかも

2011.8.13

霜山徳爾さんの「人間の限界」を読んでいて、「人間は、理由無く生まれ、弱さのために生きながらえ、偶然に死ぬ」というサルトルの言葉(らしい)に出会い、「なるほど、そうだな」と納得した。しかし、「死」がわからない僕には、2/3を納得というところだろうか。死と呼ばれる、その瞬間は選べない。だが、いわゆる死体や死骸を見つけても、「死という漢字が使用されているが、果たしてこの状態はその漢字が使われるのに妥当なのだろうか?」と疑問を持ってしまうのだ。「もしも、生きているという状態と何ら変わらなかったら?」という疑いを、何故他の人達が抱かないのかが、不思議に感じる。

黒い塊が見えているから感覚(実感)がある

2011.8.11

「ちょっとおかしい」と疑念を抱き、筆を置いた作品。今夜見てみると、「あ、これでよかったんだ」と確信に変わり、完成という手を止める行為が同じでも、止める時の心持ちが異なる場合があることに気付いた。けれども、結局、完成ではなくて、「その先」が観えたということなのだが。
 
それは、日常のようでもあると思った。いつの頃からか、いや、初めからなのかさえ定かにならないほど前から「現実感」というのが希薄だ。駅のホームからホームへ飛べることの方が妥当性が高いような、一般的に現実では見えていないものが見えていることの方が正しいような実感があるのだ。今でも黒い、とてつもなく黒い圧倒的な暴力性を持った悪意の(気体のような)塊が左手から腕の周囲を纏っている。しかし、それに支配されるのではなく、抑え込もうとするのでもなく、寄り添って生きて行くことを選んだ頃から、希薄な現実感は、一般的に言われる「現実感」とは隔たりながら実感を持つようになった。
 
「泣くから悲しい」と言うように、気付いていないだけで、行動の方が先に気付いていたのだろう。