Archive for 2019.5

力を入れた方がいいところに力を入れる。

2019.5.31

「デザインに力を入れた(お金を掛けた)方がいいのか」という相談をよくいただく。
この場合で聞かれるデザインは、主にグラフィックやwebのことだ。
 
たとえば、ぼくは耳鼻科と鍼灸院と矯正歯科に通っている。
耳鼻科には鼻炎の処方箋を貰いに行き、鍼灸院と矯正歯科は仕事と生活に支障がない体作りのために通っている。
これだけでも、デザイン投資をする部分が異なることが分かる。
 
耳鼻科の場合は、家や職場の近所にある方が良く、この要素は事業者側がコントロールできない(しにくい)部分だ。
だから、「行きやすい」という理由で、選択されやすくなる。
花粉症シーズンのときの混雑、シーズンオフのときの閑散とした待合室を見ればよく分かる。
その場合、webやグラフィックに投資をするのは無駄になりやすい。
それよりも、配達・出張・ビデオ通話による診断があったり、駐輪場を広くしたり、トイレを使いやすくしておくことに投資をした方がいい。
もちろん、これらも仕組みを変えるデザインだったり、空間デザインだから、デザインの範疇と言えばそうなる。
もしも、お客とのコミュニケーションがずさんだと口コミがあれば、コーチングやマナー講座などのコミュニケーションデザインに力を入れる。
 
なので、問題は後者だ。
鍼灸院や矯正歯科の選び方は、不調をどうやって改善できるのかお客は神経質になっている点、そして、そのための費用が決して安くはない点から、競合と比較される。
しかし、お客が望んでいる治療のゴールは似通っている。
「1:問題がなくなること」、「2:問題が起きたときに相談できるパートナーであること」などだ。
その場合、治療内容、治療にかかる費用、設備、コミュニケーションが同程度の医院が並べば、グラフィックやwebなどの佇まいが優れている方を、人は選びやすい。
これは提示された内容に対して、安心感を得やすいからだ。
これは口コミでの評価も同じだ。
 
では、佇まいが優れているとは、どういうことか。
派手でもなく、高飛車でもなく、価格に安心感を与えるものだ。
だから、100円のボールペンが10,000円の佇まいをしていると、どうしても偽物感が漂う。
こういうことを人は瞬時に察知する。
しかし、あれこれ考えさせると人は間違う。
だから、POPや広告などで情報を与えまくってミスリードを引き起こそうとする。
ぼくはこういう仕事は引き受けない。
引き受けたくないというのは、独立した理由のひとつだ。
話を戻すと、佇まいが優れていると、価格と内容が合っている、つまり、本質的で、本物であると感じる。
そうすると、人は近所になくても、通ってくれる。
この作用を利用して、中身が伴わないまま、デザインに力を入れている事業者がいるが、口コミが当たり前になった今、このやり方はむしろ逆効果になっている。
だから、内容が優れているところが佇まいを整えることが、現代では必要なことだ。
裏を返せば、内容で勝負できるところが佇まいを整えないと、お客は不安になるということだ。
 
実際、ぼくは鍼灸院と矯正歯科は電車やバスで通っている。
二つともデザインが優れていなかったので、めちゃくちゃ不安だった。
決め手は、鍼灸院の方は競合の治療期間が長すぎたことであり、消去法で決めた。
矯正歯科の方は、ぼくの症状についてカウンセリングできた点であり、院長のスキルが群を抜いていたと思えた点だ。
それでも、何かがあると、「大丈夫かな」という疑念が湧く。
特に健康=均整のとれた体=美的価値に関わり、「健康と美」はいまや切っても切れない関係であり、健康とはライフスタイルや生き様、哲学にも左右してくるものになっている。
そのため、問題がないときは他の決め手の部分で不安は抱かないが、ちょっとでも問題を感じると、大きな不安感(不満感)を持ちやすくなる。
佇まいが優れないとは、こういうことだ。
 
話が長くなってしまったが、だから、お客が選択するときの状況や状態で、力を入れた方がいいデザインは変わってくる。
これは、商品でもサービスでも同じだ。
力を入れる箇所を間違えている店舗は多いと、つねづね感じる。

体で覚える。

2019.5.30

先週から通っている鍼治療。
四十歳手前の男が「痛い」と言うのもどうかと思うので、鍼を刺される痛みに耐えていた。
「余裕だぜ」と平静を装っているが、痛みで体は反射的にビクンっ!と動く(ジャンプ反応と言うらしい)。
だから、えせ我慢なのはバレている。
 
初めてのトリガーポイントへの鍼治療だった前回と異なって、今回は「痛み」を知っている。
鍼灸師さんが自分の体に触れ、鍼を打つ雰囲気が伝わると、体の方が「あぁ、来るぞ」と身構えてしまう。
自分にはそのつもりがなくても、鍼を打たれる痛みを体が覚えてしまって、勝手に強張ってしまうのだ。
 
ぼくらの仕事でも「体で覚える」とはよく言うが、リスクヘッジができるのも、危険を体が察知するからだ。
この精度が高まると、「きな臭い」ということが分かるようになる。
相手のしゃべることが「ちょっと出来すぎているな」とか、「そんなウマイ話があるはずもなかろう」と感じることだ。
焦ってしまったりして、この精度が下がると、詐欺に引っかかったりするのだろう。
 
こういった仕事で役立つ「体で覚えた危険を察知する能力」が、今回は反対の意味で作用している。
「うわー、痛いのが来ますよー」みたいにビビっているわけだ。
それでも「痛い」とは言わないで通したのに、治療後のテニスボールを使ったマッサージで思わず「痛い!」と叫ぶ。
痛さのあまり「ヒィタイィ!」だったと思う。
もう、これまでの我慢が台無し。
「歯抜けのヒィタイィデザイナー」、クールさからはほど遠いとつくづく思う。

かなしみを、感じていない。

2019.5.29

瞑想中に「そういえば最近、かなしみを感じていない」と気がついた。
感動して泣くことはあるし、ムカついたり、怒ったりすることも、爆笑することもある。
けれど、「かなしみってどうだったっけ?」と、かなしみについて忘れるほど感じていないのだ。
気だるさも、面倒臭さも、やるしかねーという気合いもあるけれど、かなしみだけ、感じていない。
別に何か問題があるわけじゃないんだけど、何かをポッコリ失っているような。
 
理由を探っていると、歯列矯正のワイヤーが影響してそうだ。
下側のワイヤーは表側についていて、装置の付いていない前歯四本を跨(また)ぐように設置されている。
このワイヤーが、下唇を常に圧迫し、軽いしゃくれのようになっている。
これに意識を持っていかれる。
 
爆笑したり、怒ったり、感動しているときは、このワイヤーの圧迫感は忘れている。
ということは、「かなしみ」は、この圧迫感を超える感情ではないということか。
性質なのか、量なのか、超えていない事実だけが横たわっている。
この感覚は、忘れない方がよさそうだ。

ナイスな先人たち。

2019.5.28

とてもいい本。めちゃくちゃ恐れ多いけれど、自分がどの先人と考え方ややり方が近いかを知るのにも勉強になるし、なによりも、全員、ナイスな人たちだなー。だから、読んでいると、雑談の現場をちょっと離れた横っちょから、「ふむふむ、うぉー、うっひっひ」と、自分も聞いているような心地になる。
 

問題があったら。

2019.5.27

昨日の投稿で、「信じるよ」と言うことについて書きましたが、この背景にあるのは「問題があったら、それも受け入れる」ことだと思いました。
ほんの数年前までは、ぼくもこれを含めて依頼をしていなかっです。
だから、「思っていたのと違うなー」ということが起きたら、そのことについて追及していたはずです。
そうなった理由を知ろうと質問しているようでも、「ちげーじゃん」の方が強いような。
 
今でも「ちげーじゃん」ということはあります。
けれど、それで本当に問題にならないのであれば、思っていたのと違うことを受け入れることの方が、大事な気がしています。
思っていた通りでしか事が運ばないなんてつまらないだろうし、世の中、そうじゃないことの方が多いってことが分かったんだと思います。
それよりかは、「思っていたのと違うけど、これもありだな」というときは、素直に上がってきたものを受け入れちゃった方が、セレンディピティになるのかもしれません。
偶然、幸運を楽しめ。