Archive for the ‘心の健康’ Category

最初の欲望とは。

2019.2.15

ランチ難民になるときがある。
お昼ご飯を食べるお店がなかなか決まらずに、彷徨いつづけることだ。
誰が最初に言ったのかはわからないが、社会人になって、いつのまにか自分でも「ランチ難民」という言葉を使うようになった。
 
お店が決まらない理由はたくさんある。
定休日だった、席が空いていなかった、気に入らなかった、などなど。
こういう理由が重なると、いつのまにかランチ難民になる。
そして、理由のうち、「気に入らなかった」が最も後悔する。
昨日がそうだった。
 
中華が食べたいと思いながら妻を駅まで送り、さらに歩いて駅にも自宅にも距離があるお店にするか、駅から戻って自宅を通り過ぎた近所のお店にするかを悩んで、後者を選んだ結果、定休日だった。
しかし、この選択肢の中に本当は、駅と自宅の間にもう一軒あったのだ。
以前食べて、お店の人の雰囲気が合わなくて、候補から外していた。
 
その結果、ぼくはランチ難民になり、昼食を食べるお店を探しに寒空の中、彷徨いつづけた。
蕎麦屋は満席。
唐揚げ屋は弁当で調理の間、外で待つ。
家の前の喫茶店は火曜日も行った。
他の喫茶店も今日の気分じゃない。
候補から外した店に行くのは馬鹿らしい。
自炊は嫌だ。
 
ここまでくると単なる駄々っ子と変わらない。
いい理由ではなくて、嫌な理由しか見つからなくなる。
こうなると、最初の「中華が食べたい」という欲望に、「気に入る店で食べたい」という欲望が加わっていることに気がつかなくなるんだ。
苦しくなるのは、自分のせいでもあるんだよな。

デザインやアートが必要な人。

2019.2.7

みんな、「健康な人」「強い人」「キラキラしている人」のためのデザインを作ってしまう。
本当にデザインやアートが必要なのは、弱っている人。
疲れてしまっている人、引け目を感じている人、わからなくなってしまった人。
彼らを含めたデザインは、難しい。
むしろ、分かりやすい弱者へのデザインの方が簡単だ。
「健康な人」「強い人」「キラキラしている人」のためのデザインの要素を取り入れればいい。
そうとは言え、「にこちゃんマーク」を使ったようなへりくだったキラキラはだめだ。
昔、千住博さんの著書を読んでいて、「病院に飾る絵は普通な方がいい」というような文章と出会ったと記憶しているが、まさにその通りだ。
「普通だから安心する良さ」
ここにたどり着くのに、随分と時間がかかった。
うまさを感じさせないうまさ、こういうのをつくりたい。

詰めない。

2019.1.27

よかった、と思った。
数日前から読んでいた『雪と珊瑚と』を読み終えて、まずはそう思った。
 
いくつもの親子という関係性がこの中にはあるが、ぼくがひたすら感じていたのは、「甘える」という関係性だ。
小説の中で「そこまで依存できない」という言葉が出てきたが、甘えるには、甘える相手に対して、身を預けるような覚悟が必要になる。
「お願い」や「依頼」には、ダメ元で、というのが入り込む余地があるが、「甘える」が成し得ないと、大きな拒絶のように見えてしまうものだ。
 
子どもが親に甘えることができないと、怒り、泣いたりするのは、それがダメ元ではないからだ。
そして、行為としては「お願い」であっても、そのお願いの中には「甘える」要素が含まれている。
だから、どんなときでも主人公の女の子は甘えてきたじゃないか、と受け取られる側面もあった。
本人の意思とは関係なしに「悲劇のヒロイン」を勝ち取ってきたようにも見えてしまうひっかかりを、敵意として指摘する人物がいたことにも、ぼくは救われた。
 
ただ、余裕がなかった人生を歩んできたのは確かだろう。
そういう人が、どこかのタイミングで、張り詰めない人間関係を頼って生きていく術を手に入れるのは悪いことではない。
どこかで人は、頼られると嬉しいものだ。
けれど、頼る方も頼られる方も、このあり方を把握していないと、緊張して、張り詰めて、不信感を抱き、相手を怒らせる。
 
そして、どうしても、ウマが合わない人はいる。
そういう人からは、何をしていても目障りに見えてしまうものだ。
どちらかが善人で、どちらかが悪人、ということもないだろう。
 
張り詰める、ということを考えていて、自分のことを省みていた。
力強さは欲しいけれど、張り詰めるっていうのとは違うよな。
思い詰める、根を詰めるもそうだけれど、詰めても仕様が無いことだってあるもんだ。

満足できて、のびのび暮らす。

2019.1.21

昨日の内容を書き終えた後、「当たり前に生きる」っていうのはどういうことだろうか、と考えていてわかりました。
 
のびのび生きること。
 
自分の行いに満足できて、のびのび暮らすこと。
こういうことが足りていないし、みんなとワイワイできない人が感じるのは、社会とのズレだ。
時代と違う生き方をすることに覚悟が求められるのなら、そんな覚悟、クソくらえだ。
 
「こうすれば、うまくいく」という話がいまだに多く、それは人との付き合い方のようなところでも広まっている。
けれど、それをやったとしても、望んだ未来が手に入るかと聞かれたら、そんなこともないのは、誰でも承知だ。
それでも、やり方に飛びついてしまってるというのは、いまだに閉塞感の中に人々は暮らしているんじゃないだろうか。
景気が上向きになったとしても、息苦しさを感じている人はたくさんいるだろう。
 
自分のことを省みても「自分は違う」と言い切れる自信はない。
自己肯定感の低さではなく、満足して、のびのび暮らすってことが少なくなってきているんじゃないだろうか。
俺の場合、いいものが作れたら、死んでもよかったはずだ。
俺も、もっと、感覚を大事にしなきゃな。

見方を変える。

2019.1.19

昨日の話じゃないけれど、あっしも喉が痛くなりました。
昨夜、喉が痛いなあと思いながら布団に入って、考えごとをしていました。
 
思考の老廃物は、どうやって排出されるのだろうか?
 
飲食の老廃物はうんちやおしっこになります。
体の細胞が菌と戦った後の老廃物も、鼻水や喉の吹き出物のような形で出てきます。
この過剰反応がアレルギーだそうで。
 
そこで、入ってきたもので体がいらないと判断したものの排出は見てとれますが、目に見えない情報や思考の老廃物はどうやって排出しているのだろうかと、考えていました。
 
こうやってものを書いていることもひとつでしょう。
SNSもそうだよな。
炎上なんてこれをよく表している。
酔っ払って管を巻いているのも、そうでしょう。
愚痴を言うのは、わかりやすいかもな。
愚痴は瘴気を帯びるともいいますし。
 
ぼくが腎臓の持病を持っているため意識が向いてしまうのですが、誰でも老廃物を排泄できないと体調が悪くなったり、死に至ったりします。
これと同じように、情報を手に入れるだけだったり、考え事だけして、外に出さないと悶々とするのが人間です。
 
そう考えていると、ぼくらは常に老廃物を排出していると言えます。
綺麗事が、聞く方にとっては好まれないのもわかります。
アウトプットと格好良く言っても、老廃物ってことだ。
カッコイイことを言う必要なんて、ないんだよ。