Archive for 2011.12

今年もありがとうございました。

2011.12.31

普段通りの土曜日を過ごしていたら、「今年もあと8時間ぐらいで終ってしまいますね」とラジオから流れてきて、今日が大晦日だということに気がついた。先日、友人から「来年はどういう年にしたい?」という質問への回答も「去年と同じ事を言っているよ」とツッこまれ、少々照れてしまったが、「来年は(来年こそは)……」ということを僕は言ったことがないのに気がついた。
 
言い方など表面的な部分は幅を持ち、変化しているように見えても、根本は変わらないでいるのかもしれない。むしろ、根本の部分が年々シンプルかつソリッドになっているようだ。「作る」ということが当り前となりながら、仕事として役割を担うようになるにつれて、日常に「遊び」の要素と「恐れ」の要素が混ざり、今まで遊んでいた部分が確実に減った。仕事をするようになってから出会った友人と、大学以前で出会った友人と一緒に話をしていた時も、前者からは「女友達いないよね」と言われ、後者は「いや、いるよね」と言われ……そう、確実に減ったのは女遊びだ(かなり悪い響きだ)。今では、その時間があるのならば、作品をつくるか、作品に関わることをしていたい。
 
友人のお店に飲みに出掛けるのも、実は作品に関わっていることなのだ。職人としての美味しいお酒や魅せる動きを交えての話。その時間はリラクセーションの効果と、作ることへの意識に別の考え方をプラスする効果がある。一日が24時間しかなく、人間が限られた時間でベストを尽くせる時間の短さを知ると、1秒も無駄に出来ない事に気付く。そして、日々思うのだ、「良い作品をつくりたい」と。そして、そのためには「もっとがんばるしかない」と。毎年、同じ事を思っているんだな、これが。
 
今年もたくさんの方々と出会い、そして協力していただき、誠にありがとうございました。来年もよろしくお願い申し上げます。
 
エグチマサル

感謝

2011.12.24

世間ではクリスマス真っただ中だが、変わらずにプリントなど仕事・・・正月三箇日がないことももう何年になるのか記憶がないほどだが、今年ほど職域が広がっている年はなかった。しかし、そのようになって思うのは、頭の切り替えやそれに付随する動きの変化が明瞭になってきたことだ。正直に言うと、自分でも驚いているが、結局は「作る」ということに集約されるのだから、もしかしたら当然のなりゆきだったのかもしれない。しかし、これだけで良いのだ、欲張る程の多趣味は持っていない。そして、僕がこうなるために(鬼のように)鍛えてくれた人達に感謝です。

中庸が今なら、次は…

2011.12.19

「青が白い」― 今朝、コンビニから出て空を見上げた時に脳裏に浮かんだ言葉だ。「海を昇る」、「ゆっくりと恋をしませんか」など、最近はするりとフレーズが浮かんでくる。そして、これらが次の作品のキーになっているだろうとも予測がついている。
 
欲動から白へ。欲動と白から中庸へ。中庸からの先へ。腕を伸ばしたその先に、腕が伸びていく感じだ。

子ども力

2011.12.18

墨の乾き待ち時間。今日までにやらなければならないことは決まっているので、急く気持ちもあるが、焦って作業をしても意味がないので昨夜の話を。
 
昨夜は、加藤大季さんと呑んでから秦さん+鷹野さんのトークショーへ。しかし、いざ到着すると赤ん坊と遭遇してしまい、そのまま落ち着いてしまった。隣の部屋で催されているトークの内容はマイクから聞こえ、受付のモニターから流れてくる隣部屋の模様、目の前には子ども…浮世の話だが悠々自適に思えた。
 
世代で言うと、3つの世代が居たことになるが、この子たちの地球が美しいものであって欲しいといつも思う。そのために今なのだ。良いと思うことを今やる、それを過去の人達だってやってきたのだ。その流れは、生命誕生からおそらく変わらないだろうが、今よりも少しでも美しいものにしたい。そのために、「今を軽んじてはいけないな」と子どもが教えてくれる。

システムの話のつもりが…

2011.12.17

今年は制作から流通までのシステムを作ることが多い。スキャンからレタッチ、出力までを一列にし、頻度が中程度のものは全て引き出しなどの目に見えない場所に閉まった。今まで以上に「使ったら片付ける」ということを徹底している。
 
そういう流れで出来た場所で一番のお気に入りは、筆置き場だ。引伸し機を譲ったことで空いた机の上に厚めの板を置き、その上に筆と白い陶器のパレット(小皿)を並べているだけで、筆は転がるので等間隔にはならず、向きだけ揃えて間隔は筆に任せている。白い机も板もパレットも筆も、全てが使い古されており、手垢の重みがある。
 
それらの上には小品やマッピングされたコンセプトが吊るされており、大判への「いざ筆入れ」という極度の緊張と恐怖による興奮状態から「えいやっ!」と清水の舞台から飛び降りる僕を後押しをしてくれ、落ちた先にもしっかりと作品が受け止めてくれる。飛び降りたことで作品が昇華した時、僕は安堵と高揚に包まれる。ただし、すぐに次の舞台に立つはめになるのだが…そんなことを繰り返しているのだから、作ることにおける中毒者になっているのだろう。
 
たとえジャンルが異なっても、このような緊張感からの高揚は生まれ、その深みは底知らず、その高さは天井知らずだ。だからだろう、ジャンルを超えて興味が出てくる人というのは、研究好きの快楽主義者という似たような匂いがしてくる。