Archive for 2020.1

質問力について。

2020.1.27

家族や友人から、仕事の業績を質問されるとき、ぼくは決まって「ぼちぼちです」と答えるようにしている。
これは経験上、何を言ってもいい回答にならないし、いい会話にならないことをわかっているからだ。
 
仮に右肩上がりで上手くいっていることを言うとしよう(実際にそうだったとしてもいいし、見栄をはってでもいい)。
そうしたら、相手はこちらの回答を自慢と捉え、自分のすごいところを言って張り合ってきたり、あら捜しをはじめるか、いたずらに持ち上げたり、へりくだって何かを得ようとしはじめる。
 
反対に、うまくいっていないような回答をするとしよう(これも実際にそうだったとしてもいいし、謙遜してでもいい)。
そうしたら、相手は優越感に浸るか、役に立たない人生訓を語り出すかのどちらかだ。
とにかく、他人というのは、何かを言いたくて堪らないのだ。
 
そして、多くの人たちとは違う生き方をしている人や、思想を持って事業をしている会社が失敗すれば、「ほら見たことか」と言いたくなるのが日本人だ。
他人にへりくだって、迎合して、好きでもないことを嫌々やるのが仕事だと思っている日本人からしたら、ぼくのようなタイプは、うまくいくとつまらないタイプでもある。
控え目に言っても、流石に37年も生きてみると、痛いほどそういうものだとわかる。
 
だから、最初の質問では、どちらでもない回答をして、相手の好き勝手に想像させておくのが一番望ましい回答だということを学んだのだった。
これはぼくの処世術のひとつとも言っていいし、ぼくよりも年上の人は、どうでもいい人生訓を語るよりも、こういうどうでもいいことをやり過ごす術をもっと教えて欲しかった。
 
そもそも、業績を聞いてくる人は、ぼくの思想や仕事への姿勢などどうでもよく、ただ、会話のための会話をしたいだけなのだ。
仕事を依頼しようとしている人だったら、相手の業績など聞かずとも、仕事を依頼してくる。
その違いも、完全にあるのだ。
依頼というのは一種の覚悟も必要だから、どうでもいいことを質問している余裕なんてないんだろう。
依頼をしてくる人の質問と、依頼をしてこない人の質問の力強さの差ってあるんだ。
依頼をしてくる人は、ぼくの思想や仕事への姿勢を聞きたがる。
覚悟を持って事業をやっている人ほど、上手くいく、失敗するのは運の要素も絡んでいることがわかっているから、上手くいっている(いっていない)のはたまたまなのか、それとも自業自得と言えるものなのか、見極めようとする質問をしてくる。
人として信用できる人間なのか、を見られているような。
もしくは、自分と生きる上での哲学が重なるのかどうか、というようなことを見られている。
だから、放っておく質問と、真摯に答える質問って、やっぱりあるんだよね。

語学学習の成長の方法。

2020.1.26

大学の生涯学習で英語を習っていることは以前にも書きましたが、今回のコースが始まりました。
今までよりもちょっと上のクラスに挑戦したぼくは、朝から意気込んで「Rock’n Roll!」なんて勢いよく言う始末です。
それで、教室につくと、前回よりも人数が多いことが一目でわかります。
ただ、内容は省略しますが、授業が終わった後、ちょっと拍子抜けした自分がいました。
「あれ?なんか普通だったぞ」と。
前回の超初心者クラスのときに受けた内容から予測していたのとちょっと違ったんです。
「なんかもっと、こうガツガツした感じじゃないの?」「だってレベルアップしているんだぜ」みたいな。
なので、四時間の授業が終わった後、ぼくは気持ちの落ち着きどころを見失っていました。
けれど、これを妻に話したら、流石の一言です。
 
妻「それが成長ってことじゃない。」
 
あぁ、そういうことか。
大学以外でも、ぼくは毎日アプリで自習をしていて、ネイティブスピーカーの話を聞いていました。
聞いて、真似してしゃべって、考えて、答えて。
知らず知らずのうちに、ぼくは成長していたのかもしれません。
ただ、授業は初回だと言うことで、ちょっとスローペースだったのかもしれませんし、様子見だったのでしょう。
 
これにおごらずに、いつも通りの自習をするようにします。
というのも、楽しいですから。
ぼくにとって英語学習は、It’s my hobby. なんですよね。
挑戦とか、目的とか、ビジネスとか、そんな崇高なことじゃないんです。
楽しいこと、好きなことだから、続くんですよね。
これが、サンポノたる由縁でもあります。
散歩のついでに、仕事をする。
それぐらいがちょうどいいと、本当に思っています。
だって、仕事に貴賎なんてないですから。
ぼくらの仕事の価値はあるでしょうけれど、仕事の価値なんて、全部の仕事にあるんだから、競うものじゃありません。
もしも、自分の仕事に貴い価値があると思っているのなら、同時に賎しい仕事があるのでしょう。
ちなみに、アートもデザインも昔は賎しい仕事と思われていたんですからね。
貴い価値があるのなら、賎しい価値もあるということを忘れてはいけません。
自分の仕事が犯罪じゃなくてよかった、ぐらいに思っておけばいいんです。
 
これは何かを習うことでも同じです。
習うとか、本を読むとか、運動するとか、どこかで崇高なことのように思われるけれど、そんなことはなくて、好きだからやるんでしょうに。
成長することが崇高なことになりすぎたら、息苦しくてしょうがないです。
もっと、気楽に。
空を眺めて、深呼吸をして、ゆっくり取り組めば、楽しさは出てくるんだ。
 
あ、そういうことか。
今日の英語のクラスも、そういうことだ。
こういう楽しみ方があるんだな。
空を眺めて、深呼吸をして、ゆっくり取り組む。
散歩と同じだ。
自分自身にも発見がありました。

近所の中華料理店。

2020.1.25

今週から行き始めた近所の中華料理屋さんがあるのですが、ここが美味しいんです。
中華料理にしてはあっさり目で、家庭的な味とお店の味の中間にあるような、ほっとしつつお店で食べている満足感が味わえます。
今週は2回行っちゃいました。
 
突出したいいところがあるわけではないのですが、ホールを任されている娘さんのホスピタリティや、味の落ち着き方、禁煙による匂いのなさ、それに明るさがいいんでしょう。
食べていると、「あぁ、こういう仕事いいよなぁ」と、職種は違えど、目指すあり方のひとつだと思わせてくれるのです。
 
おしゃれカフェのようにいきった感じもなく、老舗料亭のような背筋の伸び方もなく、かといって、薄汚さもないのです。
差別化とか、特長を伸ばすとかよりも以前に、基本的にいいよなぁ、と言えるお店です。
だから、わざわざ電車に乗って行くようなところでもないのですが、家族で行くにはすこぶるいいお店です。
 
もっと言っちゃいますが、営業時間は11時〜14時と15〜17時まで。しかも餃子は15時からじゃないと注文できない。
ん? 15時から17時って、早めの夕飯なのか、遅めのお昼なのか、そこで餃子つきで食べるの?
っていう具合に、ぼくはまだ餃子が食べれていないのです。
絶対に、美味しいだろうに。
 
こういうお店にもデザイナーが必要?
バカ言っちゃいけませんよ。
それこそ、野暮ってもんでしょう。
もう十分、デザインは果たされていますよ。
町だけでいいのか、外からもお客が必要なのか。
全然違いますからね。

マル秘展に行ってきた。

2020.1.24

21_21デザインサイトで開催中の「㊙展 めったに見られないデザイナー達の原画」に行ってきました。
基本的に、デザインという仕事は、完成されたものだけが世の中に出回るのですが、完成形になる前の原画が展示されています。
日本に住んでいたら、一度は目にしたことがあるような仕事の数々。
その仕事の胎児にあたる原画が並んでいます。
 
色んな仕事があるし、色んなやり方がありましたが、ひとつ、共通して言えるのは「目の解像度の高さ」です。
目の前に起きていることを掴み取る解像度、想像上に広がる景色を見る解像度、目の前に現すときの解像度、説明された人の反応を予測したり、受け取るときの解像度。
これらすべてに「目」が関わっているのですが、この「目」の解像度が極めて高いです。
こういった共通項を見つけるのには、いい展示会でした。
 
ひとつだけ物足りなく感じたのは、ひとりひとりを知るのには、その人を特集した書籍を見た方がいいと感じたこと。
何人か、影響を受けた人がいたけれど、その人たちについては、ちょっと物足りなかったんです。
違う発見もあったけれど、もっと「動き」たかった。
 
こうやって考えると、展示会というのは体験の場であって、咀嚼とは違う満足が必要なんでしょう。
まだ展示をしていた頃、「展示はライブだ」と言っていたことを思い出しました。
ちょっと恥ずかしいですけどね。
けれど、若く生意気な自分が言っていたことは、あながち間違ってはいなかったようです。
子どもが立って好奇心が刺激されて動き回るように、展示会というのは好奇心をくすぐられて、導かれて動きます。
椅子に座って、じっくり、よく噛んで、飲み込んで、自分の栄養にする方法とは違うんですよね。
そういう意味では、咀嚼するシーンが多い、味わい深い展示会でした。
図録でないかなぁ。
超欲しい。

そのビジネスに愛はあるのか。

2020.1.23

図書館から借りてきて読み始めた本なのに、十分の一も読まずに終えてしまった本で気づいたことがあった。
著者の思い出話がまとめられている本で、一話の長さから推測するに、もしかしたら何かの雑誌に連載されていたのかもしれない。
内容は笑える。
けれど、一話を読み終えるごとに、一抹の嫌味がある。
「自分がこのおもしろさを満喫できていないだけなのか」と疑問にも思って、読み進めてみたが、やはり、後味が悪い。
別に誰かを傷つけるような話ではないのだが、思い出話の登場人物たちに対する愛を感じないのだ。
それで、三、四話を読み終えたところで、図書館に返却しようと思ったのだった。
 
著者はおもしろい人なのかもしれない。
だが、いい人ではない気がした。
何かの本か小説で、「強くなければ生きることはできないが、優しくなければ生きる価値はない」という一節があったと思うが、まさに、優しさを感じなかったのだ。
もっとぼくが敏感になっていれば、優しさを感じていたのかもしれないし、鈍感であればおもしろさを満喫できたのかもしれない。
けれど、今のぼくには、そのどちらもできなかった。
 
これはひとつ勉強になった。
ぼくは、優しさを感じないものが苦手なのだ。
昨年観た映画の中で『イエスタデイ』にとても感動した話は以前にしたが、この映画に出てくる人たちはみんな優しさがあった。
ひとり、マネージャー(プロデューサー?)の女性が悪役として描かれるけれど、その人だって、自分の仕事に対して熱心なだけと思えるほど、優しさのある映画だった。
有名なミュージシャンを題材にした映画はたくさんあって、破天荒ぶりや悲惨さぶりを描きがち(それが事実だから仕方がないけれど)になるけれど、『イエスタデイ』に限って言えば、「音楽っていいよね」や「ビートルズってやっぱいいよね」と素直に言いたくなるハッピーさがあった。
どんなにいいものを作ったり、どんなに便利なものを作ったとしても、大前提に、優しさがないとダメなんだ。
愛、愛こそすべてだ。
そんなことを言いたくなる瞬間が、ぼくにでもある。
 
ビジネスをやろうとするとき、「不安や不満、不便と言われることを解消させることに、人はお金を払う」というのは当たり前の話だが、お金を儲けようと思って不安などを解消させるのか、不安などを解消させたい相手がいるからビジネスをはじめるのか、ではビジネスの当事者として全然異なる。
そこに愛がなければ、やめた方がいい。
そういうことを平気で言えるぼくは、経営者として甘ちゃんなのかもしれないね。