質問力について。パート2。

2020.1.28ビジネスの健康

会話をする上で、「しないように気をつけていること」がある。
そのひとつに「会話のための会話はしない」がある。
昨日も書いたが、会話のための会話をすると、たいていはロクな結果にならない。
相手の業績を聞くように、自分が満足するための質問しかしなくなるのだ。
 
質問というのは、自分の疑問に相手が答えてくれるものだが、勘違いしてはならないのが、答える権利は相手にあること。
質問をされた方は、どういう答え方をしてもよく、さらに、質問に答えるか、答えないかを判断するのは質問された方がするものだ。
もちろん、質問者の気分を害する答え方をしたり、答えないことで気分を悪くしたのなら、その責任の一端は答えた方にある。
 
だが、世の中、特に日本では、質問者の回答に答えなければならないと思い込んでいる人が多くいるように思える。
もう一度言うが、「答える義務」など、実は存在しないのだ。
たとえ、法定の場であったとしても、答えたくないのなら答えなくても構わない自由が、質問された方にはある。
答えなかったことで有罪になるかもしれないが、その責任を引き受けた上で、回答する・しないの自由を得ることになる(先ほどとは逆に、答えることで有罪になるかもしれないが、ここでの話題とは別の話だ)。
 
なぜこんな話をするかと言うと、質問をすることで相手から奪うものを考えていない人が多いからだ。
これも何度も話しているが、どんな人間の行いにも「感情」「時間」「お金」「労力」のコストがかかっている。
そして、質問した方は自分の疑問を解決して、自分が気持ちよくなるために、誰かに質問をする。
質問をするとき、質問者が支払うコストは「労力」「時間」、場合によっては「お金」だ。
これに対して得られるメリットは解決による満足感の「感情」と、調べ続けることで発生する「時間」と「労力」のコスト減少だ。
 
一方で、質問された方が、質問に回答することで発生するコストは「時間」と「労力」であり、答えている間に稼ぎができない分の「お金」、さらに面倒臭いことに無理やり答えなきゃならないのなら「感情」になる。
これに引き換え、回答によって手に入れられるメリットは、なにもない。
場合によっては、優越感という「感情」や、報酬という「お金」だ。
つまり、質問というのは、回答する方のコストが圧倒的に大きく、回答者のためにあるものではなく、質問者のためにある。
これに気づかずに質問をしていると、下手な質問を繰り返すことになり、つまらない会話を繰り返すことになる。
そして、つまらない質問者は誰からも相手にされなくなる(お金を払えば別だろうが)。
 
回答者において、はじめから高圧的な人は別として、質問者の質問の仕方やタイミング、回答後の反応が悪くて、その後の対応が悪くなるということは多いと思う。
ぼく自身、質問をされて答えたのに、その後何の反応もなかったり、何も聞き入れていない様子であるのに、また同じ人から質問されたら、わざわざ時間を割いてまで対応しなくてもいいだろうと思うことだってある。
そして、人を育てていてわかったことだが、こういった躾のようなことを教えると「厳しい」と捉える人の方が、いつまで経っても改善しない。
「気をつけよう」とする人の方が、配慮のある振る舞いができるようになっていく。
 
質問は会話をはじめるきっかけであるが、その分、使い方を間違うと、自分の首を締める。
コミュニケーションが会話によって成り立っている部分が多いのだから、質問力はとても大事だ。
つまらない質問をするぐらいなら、沈黙に耐えられるようになった方がいい。

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