Archive for the ‘体の健康’ Category

昼寝。

2019.9.10

出張帰りの日曜日、家で作業していたら寝落ちして、そのまま2時間以上昼寝をしていました。
目が覚めて、時計を見てびっくりしましたが、「やっぱり疲れていたんだなぁ」と納得。
振り返ってみると、ぼくはよく昼寝をする子どもでした。
病気もあって疲れやすい体質だったのかもしれませんが、昼寝体質は今でも引き継がれています。
昼食後の20〜30分の昼寝なんてざらです。
昼寝の特徴として、普段、夜寝ている時は夢を見るのに、昼寝だと夢をあまり見ていないです。
夢は見ているはずだから、覚えていないと言った方がいいのかな。
記憶にございません、と言ってみたり。
ま、それは置いといて、寝る体質のせいか、ぼくは寝ている間に考えていることが、仕事に結びついたり、仕事のアイデアになっていることが度々あります。
ブログの内容も、けっこう、夢で考えていたことから始まっていたりします。
だからと言って、「寝るのはいいことだ」とは言いませんが、寝てばかりの人を冷遇しないで欲しいなぁ、と思ってはいます。
秋になったら、ベンチで昼寝する人も増えるでしょうから。

鶏肉のレモン炒め。

2019.8.5

毎日、こうやって書いていると、書くことなんてないよーという日だってある。
そういう時は、料理のことを書くといい。
 
今年から作り始めた料理に「鶏肉のレモン炒め」がある。
これはたまたま入った定食屋さんで食べた料理だ。
一軒家を改装していると思うのだが、飲食店というよりかは、人の家で定食屋が営まれているようなお店だった。
家の近所にあるのではなくて、通っている鍼灸院のある街にあるので、バスや電車に乗っていかないと食べれない立地にある。
気取った旨さではなくて、料理上手な家のご飯を食べているような美味しさのお店で、ピンポイントで食べたいときがある。
冒頭の料理は、初めて入ったときに食べた料理だ。
 
ぼくの癖なのだが、お店で料理を食べるとき、家で作れないかと、味の分解をしながら料理を食べる。
実際に解剖しながら食べるのではなく、普通に食べながら、味覚を分解している感じだ。
だから、ぼくと料理の話を何度かしている人しか、この癖を知らない。
話を戻すと、「鶏肉のレモン炒め」を提供してくれたお店は、料理上手な家のようなお店だけあって、家庭的な作り方でできるだろうと思い、帰宅後試してみたら、これが美味かった。
妻に食べてもらったら、好物になってくれたみたいで、この夏ですでに6回は作っている。
回数が分かるのは、ちょっと歩いたところにあるスーパーで、無農薬のレモンが3個セットで売っているからだ。
 
これを冬になっても作るかと聞かれたら、それはわからない。
そのときにハマる料理って、これまでもたくさんあったからね。

若さのカード。

2019.7.22

それぞれの人には、その人が持っているカードがある。
若さ、体の強さ、機転、配慮、丁寧さ、知識、お金、時間、身長、外見の良さ、語学力、器用さ、人種、国籍、性別など、挙げればキリがないほどカードはある。
親のコネやネームバリューだって、カードだ。
だが、自分がどのカードを持っていて、社会で必要とされるカードかどうかは、あまり考えることは少ないんじゃないだろうか。
「持っていると思っていたカードを実は持っていなかった」なんてこともあるだろうし、その逆は多そうだ。
 
冒頭で挙げた中に含まれていて、誰もが持っているけれど、いつか失うカードがある。
「若さのカード」だ。
考えてみると、ぼくは随分とこのカードを使ってきた。
日本のみならず、海外でも野宿をしたこと。
四六時中仕事をしたこと。
暴言を吐いたこと。
酔っ払って手がつけられなくなったこと。
人に心配をかけたこと。
 
これも挙げていったらキリがないだろうが、挙げられたリストはすべて「今はできない」ことだ。
野宿であれば、キャンプ道具をある程度揃えて行うだろうし、少なくとも寝袋しか持たずに旅に出ようなどという暴挙はしないし、体力が持たない。
今でも四六時中仕事をしているようなものだが、あの頃とは働き方が違う。
事務所に勤めていた頃は、朝は一番乗りで会社に行き、帰りは一番最後に会社を出て、終電もないからカプセルホテルに泊まって、コンビニでTシャツを買って、それを着て出社していた。
朝夕の食事はコンビニ飯で、昼食は事務所近くの飲食店。
体を壊すのは当たり前だ。
 
だが、その時々で使っていた「若さのカード」。
30代に入ったばかりの頃が限界だったのだ。
だから、30代半ばに差し掛かろうとしたときに、体は壊れた。
37歳になり、鍼治療をしたり、矯正治療をしたりして、体を整えながら、どれだけ現役を長く続けられるかという考え方になっている。
 
若いときは、カードを早く使い切って、一瞬の閃光のように人生が終わることを期待していたが、現実はそんなに簡単なものではないことさえ知らなかった。
「若さのカード」がない今、あのカードを使った方がよかったのか、使わない生き方の方がよかったのか、正直に言うと、分からない。
聞く耳を持たないから使えたカードでもあったし、今思えば、そうせざるを得なかったんだろうと思える。
だから、「若さのカード」を持っていて、仕事で使いそうになっている場面に出くわすと、「そのカードを使った方がいいのか、使わない方がいいのかは君次第だが、いつか失うカードだということは覚えておいた方がいい」と伝えている。
(昔の悪さ自慢をしている人は、若さのカードを使いたい人なんだろうね)

失敗の経験値

2019.7.17

仕事部屋の椅子に座りながら目薬を使い、片付ける時に目薬を落とした。
落ちた目薬は、机の下の奥に転がって止まった。
ぼくは咄嗟に裸足だった足を伸ばし、目薬を手前に来るように蹴って、その後、かがんで拾った。
 
作法が汚いと思う人もいるだろうし、同じことをすると思う人もいるだろう。
そう思ったとき、あることに気がついた。
 
「机に頭にぶつかることが、勝手に思い浮かぶようになっている」
 
大したことじゃないのはわかっている。
だが、椅子から降りて、机の下に潜り込んで目薬を取った後、机に頭をぶつけることを避けようとしている。
もしくは、頭をぶつけないように、慎重に意識して拾うことを、面倒臭がっている。
 
机ではなくても、頭より高い位置にある戸棚の扉が開いているとき、頭にぶつかる未来をけっこう想像している。
咄嗟に想像して、ぶつからないようにして扉を閉める。
この想像が勝手に思い浮かぶには、頭にぶつけるという経験をしなきゃできないのだろう。
実際、子どもの頃はこんな想像していなかったから、頭をぶつけることはけっこう多かった気がしている(他の人はどうか知らないが)。
「ぶつける→痛い→不快」という経験が、ぼくに想像させる力を与えてくれたと言っても言い過ぎではない。
足で物を引き寄せるのも、当たっても痛くないものを作るのも、当たって痛い経験をしないとやろうと思えないだろうね。
 
ちょっと大げさに言うと、仕事でも私生活でも、リスクを回避できるようになるのって、失敗を重ねないとできないことだ。
リスクを想像して身動きが取れなくなるのは、失敗をしていないのにリスクを想像するからじゃないだろうか。
しても平気な失敗と、致命的な失敗の区別がつくのは、失敗の経験値によるものだ。

橋のような仕事。

2019.7.12

野菜を炊いた小鉢、よく漬かった漬物、出汁の効いた味噌汁。
こういう料理を出してくれるお店は、何を食べてもハズレがない。
お昼時にこのお店のある街にいれば、必ず食べに行ってる。
思えば、こういう料理を出してくれるお店って、おじちゃんとおばちゃんが切り盛りしている。
年齢的には、おじいちゃんとおばあちゃんだ。
みんな腰やら足やら痛めながら続けているけれど、こういう「ちょうどいい味」って、続けなきゃ出せないんだろうとつくづく思う。
若いうちは個性的でなければ売れないと思うもんだし、中年に近づくに従って本質であろうとこだわりが強くなるが、そのどれもが辿り着けないレベルがある。
個性が尖っているのでもなく、強いこだわりを追究するのでもなく、単純に腕がいいってことなんだと、常々思う。
水に浮かぶ足場を飛び移るように、転職を繰り返すのもいいだろうが、時間をかけて作り続けた橋はたくさんの人々が渡れるように、続けた仕事はたしかな技術となって、多くの人を安心させる。
愚直に続ける奴をサムい奴、ダサい奴とする風潮もあるが、続けたもん勝ちってこともあるんだよね。