Archive for the ‘体の健康’ Category

先端が綺麗な人。

2019.10.30

昨日は木曜日からの出張のため、荷造りをしていました。
初めてのドイツで、日本よりも1ヶ月近く季節が進んでいるらしいので、まぁ、服が多い。
しかも、今回は授賞式のために行くから、スーツも持っていかなきゃいけない。
タキシードじゃなくてもいいみたいだから、それが唯一の救いか。
流石に、革の紐靴は持っていくのを諦め、普段履いているNAOTさんのディレクターを履きます。
今回はこの一足で、出張のすべてをこなそうと思います。
旅路での靴選びはとても重要ですが、やはりこのNAOTさんの靴は普段履きから、仕事履き、旅履きと、本当に色々活躍してくれます。
 
と、そんなことを書いていたら、NAOTさんから今回のような出張にうってつけの新作が出ているじゃないか。
内羽根式の紐靴で名前は「オーディエンス」。
以前からあったと思う外羽根式の革靴は「ウィズダム」。
「ディレクター」と「ウィズダム」と「オーディエンス」って、また憎い組み合わせです。
 
自分のことになってしまいますが、昔から靴にはうるさい方だった気がします。
子どもの頃も、自分で靴を選んでいました。
お金を払うのは親なんだから、生意気な子どもですね。
しかも、当時の普通のスーパーの子供靴売り場の中から選ぶんですから、たいして差はなかったでしょう。
それでも、「選ぶ」という経験を重ねることで、「靴を選ぶ」ということと「靴を気にする」ということの意識が、育ったんですよね。
靴の手入れをすることも、苦にならずにできるのも、靴に意識が向くからでしょう。
妻の靴も一緒に手入れをしたりするのも、その方が合理的だろうから。
 
髪が綺麗とか、爪が綺麗とかって、やっぱり、一緒にいる人が嬉しいですよね。
それと同じように、靴が綺麗というのもあるんですよね。
尖らせるのとは違って、靴や爪や髪などの、人間における先端が綺麗に整っていると、その人の生きる姿勢が整っているように見えるんですよね。
丁寧に生きているんだろうなぁって。
単純なんだけど、綺麗にするって、とても泥臭い積み重ねでもありますからね。
汚く生きるのは、とても簡単。
整っている人、好きだなぁ。

怒りを抱かないと、退屈になる?

2019.10.20

気づいたことがあります。
最近のぼくは怒りを持っていない。
怒りを持っていないと、平和になります。
けれど、平和になると、退屈です。
これに気がつきました。
オーマイガ。
 
そうすると、退屈な物事を引き寄せることに気がつきました。
再びオーマイガ。
 
こうなると、原因を探りたくなるのが、人間の性というかぼくの性分です。
すると、ひとつのことが分かってきました。
怒りを持っていたときは、がむしゃらに生きていた。
努力を惜しまないし、人と闘うことも避けないし、勝ち取ることが好きだった。
協力することやコラボレーションも好きだった。
今は、そのどれもが面倒臭いとは言わないまでも、自分からはじめようとは思わなくなっています。
こうなる時系列と、怒りを持たなくなる時系列が、まったく被っていたのです。
 
もうひとつ被っていたのが、運動をしなくなったこと。
筋トレとランニングの頻度が下がり、負荷の軽い運動になり、ストレッチだけになり、腰痛ケアのためのストレッチだけになり、今は何もしなくなりました。
覚えている感覚として、筋トレやランニングをしていた頃は、これらをしていると「怒り」を感じていたということ。
だから、運動をしている最中は、自分を鼓舞していました。
悪く言えば、自分を罵倒しながら運動していたのです。
今は、それがまったくありません。
 
どっちがいいのかは今のところわかりませんが、退屈を感じているのなら、また運動をはじめようかと思っています。
とりあえず、昨日はちょっとやりました。
続くのかな〜。

天候のこと。

2019.10.12

今年の9月から英語を習っているのですが、11日の土曜日は休講となりました。
ま、いま日本に来ている台風です。
金曜日は夕飯の買出しでスーパーに行ったら、買い溜めなのか商品が届いていないのかは分かりませんが、棚に陳列されているはずの商品が、かなりなくなっていました。
震災のときとまではいかないけれど、卵も肉もなくなっていて、試しに惣菜パンのコーナーを見たら、やっぱり品切れでした。
いや、いいんですけど、「備えあれば憂いなし」と言うけれど、「そんなにかい」とも思うわけで。
停電は大変だったみたいだし、「もしも自分の地域で起きたら…」とも心配したのかもしれませんが、もうちょっと泰然としているとかできないですかねー。
少なくとも、仮に想定している災害が起きたとして、「自分たちは買い溜めしたから良かったね〜」と言いながら、ぬくぬく生活できるのでしょうか。
いや、そうしたいから、買い溜めをするのかな。
ま、商品が届いていないだけかもしれないけれど。
 

話は変わり、11月にドイツを訪れる予定なのですが、現地で着る服を、どうしようか迷っています。
「1ヶ月ほど日本よりも気温が低いこと」は、調べていて知っているのですが、なかなか予想を立てられなかったのです。
そもそも、12月にどれだけ着込んでいるかとか、どの上着を着ていたかなんて、覚えていませんから。
だから、夏には相当悩んでいたのですが、今頃になって、朝、日陰を歩いていると予想がついてくるのです。
37年間経験していることなのに、忘れていることもあるんですよね。
忘れるから悩むんですが、忘れるからまた楽しいこともあるわけです。
秋刀魚の美味しさとか、焼き芋の美味しさとか、おでんの美味しさとか、覚えているようで忘れているから、また食べたくなるんです。
思い出してくるというのは、徐々に輪郭が形作られてくること。
完成された輪郭を思い出すのではなく、おぼろげな部分があるから、また楽しみになるんだ。

おいしいご飯は、運を引き寄せる。

2019.10.6

外食での「おいしい」とか「まずい」とかってあるでしょう。
初めて訪れるお店では、どんなに口コミを丹念に見ても、そのお店で自分が食べる料理が自分にとって「おいしい」か「まずい」かは、誰にもわかりません。
今日は、何がおいしいか、まずいかは置いといて、ひとつ気がついたことがあります。
 
それは、「おいしいものを食べれたときは、運が向いている」ということです。
 
スピリチュアルかどうかは知りませんが、調子が悪いときほど、外食でまずいものを引き寄せてしまいます。
引き寄せるというのは、博打的な言い方をすると、引き当てるとも言えるでしょう。
運が向いていないときは、悪いものを引き寄せてしまい、当たりくじを引き当てられない代わりに、ハズレくじを引き当ててしまいます。
例えば、行こうと思っていた店舗が臨時休業だったりと、無駄足をさせられたり、食事関係でなくても、つまらない話を聞かされたり、行く先々で騒音に悩まされたり、失礼な態度をされたり、普段はしないようなミスをしたり、ミスを重ねられたり、数え上げたらキリがないほど、重なるときは重なるものです。
こういうときに外食をすると、心の底から「おいしい」と言える料理と出会えないことがほとんどです。
仮に、自炊をしても、イライラしていたりするので、味付けが普段よりもしょっぱかったり、味のピントが外れていたりします。
つまり、自分の状況がまずいときというのは、食べるものも、まずいものを引き寄せてしまうんです。
 
そんなとき、ぼくがするのは、「必ずおいしいものを食べる」ということ。
当たりくじを引き寄せられない状況にあるのなら、どんなに小さな当たりだとしても、高い確率で当たりくじを引き当てられるところに行きます。
金曜日はまさにそんな状況だったのですが、おいしいハンバーグを必ず提供してくれるお店に行き、ちょっとだけ運を引き寄せる方向に、自分を持って行きました。
 
前菜にクリーミードレッシングがかかった卵付きサラダ。
メインは濃厚デミグラスソースのハンバーグに、付け合わせがほくほくベイクドポテトと、バターが香るインゲンのグラッセ。
食後に自家製デザート二種の盛合せと、生クリーム入りのアイスコーヒー。
 
ぼくの中で鉄板のランチです。
味を知っているのにも関わらず、食べながら、思わずうっとりと目を閉じちゃいました。
それぐらい、当たりを引き当てていなかったのです。
このランチを平らげて、家に戻り、仕事を進め、就寝すると、お客から嬉しいメールが届いていました。
やっぱりね、おいしいものを食べるのって、「引き寄せる」ことでもあります。

得ることを、失ったのだ。

2019.9.27

不思議だ。
自分も含めて、人は誰から言われずとも、自分のことをおっさんと呼ぶようになる。
じいさんや、ばあさんも同じだ。
 
このことについて考えていると、「失う経験」と「得る経験」のバランスが変わる瞬間が関わっているような気がしている。
昔から相談を受けるタイプだったが、年齢を重ねるにつれて、回答の仕方や回答しているときのイメージが変化している。
昔の回答方法は、自分の意見や考えを100パーセント話す感じだ。
それが今では、「この場合なら、こう。こうであれば、こう」というように、事象についての対応を話すような感じになり、理由を問われたら「人間って、そういうものだから」という回答になる。
 
ここから分かるのは、自分の視点から、他者の視点になっていること。
自分の視点を持っていた者が、他者の視点が手に入った後、何を手に入れるのか。
実は、ほとんどないのだ。
慌てることもほとんどなくなったし、何かがあったからといって、どうかなるわけでもないことも十分わかってしまった。
落ち着きを得たことで、慌てるを得ることも、落胆を得ることもなくなったのだ。
得ることを、失ったのだ。
人の相談を聞いていると、「この人は、まだ得るものが多いんだな」と思うようになった。
それと、「あぁ、この段階なんだな」とも思うようになった。
 
考えながら動くことが増えるにつれて、瞬発的な筋肉動作ができなくなっていく。
簡単に背中を痛めるし、活動力が減っていく。
動けなくなる前に、落ち着くための経験値を積み重ねることができて、あぁ、よかった、と思う。
今、30代を迎えた人がいるのなら、「動けなくなることを想像して、その時にできることを今のうちから身につけ始めるといいかもね」と、アドバイスするかもね。