Archive for 2018.6

言葉を扱うこと。

2018.6.30

文章を書くとき、道筋を立てて書き始めることもあれば、成り行き任せで書くときの二つがあるでしょう。
ヒトと話すときも同じです。
対談とかインタビューなんかでは、特に顕著に現れますよね。
 
道筋を立てた場合は、道筋通りになった話はつまらなくなります。
成り行き任せでも、子どものような、言いたくなったことだけを話すようでは、聴いてる方もつらくなってきます。
 
緊張するというヒトの場合は、特に前者が当てはまっていることが多い気がします。
怒りとか退屈になる話も、大体どちらかです。
 
話し手も聞き手も、面白くなるような話し方って、話す前に、ぼやーんと面白くなりそうだなぁ、と考えている程度でお互いが臨むと、面白くなることが多い気がしています。
 
面白くなりそうと思うってことは、相手のことを考えているわけです。
しかも、「ぼやーん」となんだから、話の道筋なんて舗装されていません。
この「どうなるかわからない感」と、この話の波を「乗りこなす力量」が、話を面白くするコツかもしれませんね。
 
うーん、疲れていると感じているときに書く文章も、どこか素っ気ない感じがするものですねー。

専門家の職業倫理。

2018.6.29

誤解のある言い方からはじめるけれど、ぼくは、相手によって話し方が変わっています。
話の軸は変えないけれど、話し方の丁寧さや、熱の込め方や、相手への攻撃性など、話す相手によって、変わっていると思います。
むしろ、初対面のヒトの方が、一律の話し方になっているような気がしています。
 
というのも、ここ数年で気づいたのですが、相手の対応によって、相手に対する信頼が、プラスにも、マイナスにも積み重なっていきながら、ぼくの対応も変化しているのです。
 
「面白がってくれてるな」「信用されているな」「いい質問だな」とかね、相手が自分との関係をポジティブに築こうとしている対応だと、付き合いの長さがプラスに働きます。
同じように、「要望しか言わないな」「こちらの助言を聞かないな」「質問ではなくて、意見だな」といった反応が積み重なると、付き合いが長くなるほど、対応はそっけないものになっていきます。
 
そんでね、これって、専門家と関わるときの、肝心なことだと思っています。
専門家と話しているのに、助言を聞き入れないことが多かったら、専門家と関わる意味がないですもんね。
配慮のない要望が多かったりしてもね。
 
そうすると、お金と契約だけの関係になって、自分の利益を確保しようとつとめるのは、当たり前なんですよね。
職業倫理って、契約をすれば果たしてくれるってことではない。
専門家を信じて任せるってことを、依頼人である自分から示さないと、専門家は気持ちよく働けないってもんだぜ。

手書きを使う。

2018.6.28

いやね、他のヒトにとってみたら、本当にどうでもいいことを話します。
いま、ぼくは万年筆を買おうか、迷っています。
正確に言うと、万年筆を買ってもらおうか、迷っています。
もうすぐ誕生日なので。
 
買ってもらうなら、使わなきゃマズイだろうと、万年筆を使う場面を考えています。
すると、手書きの場面について考えてしまうのです。

パソコンを毎日使うようになっても、頻繁に手書きを選びます。
理由は、チマチマしないで、考え事ができるからです。
パソコンの場合、文字の間違いや、文字変換の機能に気を取られたりします。
(きのうが昨日と変換されたり)
 
ブログの文章や、メールの文章なんかは、パソコンの方が都合がいいもんですけどね。
「チマチマしないで書く」って心構えがありますから。
 
じゃあ、手書きで書くときって、どんなときか。
「どうなるかわからないことを書く」ときに、手書きにします。
 
ラフスケッチや、考えを広げるための思考地図。
図が必要なとき。
あっちこっちに書きたいとき。
 
収束させることよりも、拡散や発展させたいときに、手書きを使います。
発展させながらまとめたいときに、手書きを使います。
「手書きを使う」だって。
すると、手書きは道具なんだな。
考えを発展させるための、道具なんですね。
 
「手書きをする」っていうのも、不思議な言い回しです。
「手書きを選ぶ」
「手書きの手紙。」
「手書くる手紙。」
「本日は手書き。」
「標準化ならキーボー。差別化なら手ガキ。」
 
最後のは商業資本主義とかけているんですよ。
キーボーとガキとかもね。
 
「標準化ならキーボード。差別化なら手書き。」
 
素直に書いた方が、いまっぽいですね。
一色刷りのイラストですね。
いたずらが過ぎたところで、今日の話はおしまいです。
(万年筆の話じゃなくなりました)

悩みは細分化しちゃう。

2018.6.27

ヒトから悩みを聞いていると、なにが悩みや不安をつくりだしているのか、気がつきます。
たいていは、大き過ぎるモノを、その人の中に作り出していることなんです。
 
「全員を救えない」とか、「理想とするヒトのようになれない」とかね。
大き過ぎるモノを直視してしまうと、小さな一歩さえ霞んで、見えなくなってしまうようです。
すると、不安感だとか、無力感だとか、切迫感だとか、強迫観念だとかに、自分は負けてしまうわけです。
 
自分は小さいっすから。
だから、大き過ぎる目標は、具体的な事柄になるまで細分化すれば、ひとつぐらいはやれそうなモノが出てくるものです。
このひとつを解決すれば、その分のチカラがついて、違うひとつをやれるようになったりします。
 
ロールプレイングゲームと同じっすね。
今のゲームはしらないけれど、ファミコン世代のロールプレイングゲームは、レベルが足りないところに入ると、敵にボコボコにされてました。
運良く逃れるか、全滅するかして、「この場所はまだ来ちゃだめだ」と分かるわけです。
 
そして、クリアーできるダンジョン(敵のいるところ)からこなして、レベルを上げていって、ボコボコにされた地に再び訪れると、クリアーできます。
勇者の剣を手に入れるもよし、普通の剣でクリアーするのもよし、お姫様を助けるのもよし、世界平和をするのもよし。
ひとつずつクリアーしていけば、レベルアップしているものですよね。

電車に乗って。

2018.6.26

電車に乗っていると、「電車ってすごいなぁ」と改めて思うときがあります。
海外の電車にそれほど乗ったことがない私なので、世界の電車事情には疎いでしょう。
それでも、日本の電車の時刻を守る正確さの評判は耳にします。
それで改めて思うんです。
時刻の正確さ。
事故のときの復旧の速度と振替輸送の対応力。
揺れの少なさ。
ホームの綺麗さ。
だって、深夜に酔っ払いが吐いても、翌日までには対応されてますよね。
そもそも、停電の少なさにも驚きます。
これらの「動くのが当たり前」の状況って、ものすごい努力が働いていると思うんです。
そう考えると、「当たり前」って、色んなヒトの「当たり前じゃない働き」の賜物なんだな、と改めて思うのです。
そんなことを考えながら、電車に乗って、家に帰ってきました。
(ちなみにぼくは吐いていませんよ)