Archive for 2019.10

明日から出張です。

2019.10.31

10月31日(木)〜11月5日(火)までドイツ出張なので、その間の「サンポノけしき」はお休みです。再開は11月6日か7日を予定しています。
 

はい、という訳で、いまは出張直前のブログを書いております。
ドイツに行く前に色々とやっていたら、すでに疲労困憊気味で、このまま飛行機に乗るんかーい、と心配しております。
それよりも、ちゃんと起きれるんかーい、とも心配しています。
もっとそれよりも、疲れすぎて眠れないかもしれなーい、とも思っています。
眼が疲れすぎてまぶたは重いから平気かな。
 
はい、というはじまりですが、今日はちょっとした感動がありました。
クライアントのオフィスで打合せをして、ぼくがいない間に進めて欲しいことを若手の二人に伝えたのですが、二人ともやる気と頼もしさがあるんですよ。
普段、ぼくがマンツーマンで教えている人が、もう一人に対して、「俺が教えるからやってみなよ」と成長の後押しをしてくれていて、その姿を見て「いい光景だな」と思いました。
 
技術やアプリケーションの操作というのは、教えれば覚えられるものです。
しかし、成長というのは覚えただけでは不十分で、覚えたものから考える力だとか、伝わりやすくする配慮だとか、教える力だとかが身についたときに、成長につながるものです。
そして、人が成長するために必要なのは、その人のやる気です。
やる気がなければ成長はできない。
だから、成長したい人というのは、自分で時間を作っているんですよね。
時間がないからできない、というのは、成長したくないと言っているのと一緒。
だから、今日のぼくは、「成長したいと思うのなら、やってみるといいよ。もしも、やりたくないのなら、俺がやるから」という言い方をしました。
そうしたら、一人は「やる」と言い、もう一人は「俺が教えるから」と言った。
この二人は、もっと伸びるぞ。

先端が綺麗な人。

2019.10.30

昨日は木曜日からの出張のため、荷造りをしていました。
初めてのドイツで、日本よりも1ヶ月近く季節が進んでいるらしいので、まぁ、服が多い。
しかも、今回は授賞式のために行くから、スーツも持っていかなきゃいけない。
タキシードじゃなくてもいいみたいだから、それが唯一の救いか。
流石に、革の紐靴は持っていくのを諦め、普段履いているNAOTさんのディレクターを履きます。
今回はこの一足で、出張のすべてをこなそうと思います。
旅路での靴選びはとても重要ですが、やはりこのNAOTさんの靴は普段履きから、仕事履き、旅履きと、本当に色々活躍してくれます。
 
と、そんなことを書いていたら、NAOTさんから今回のような出張にうってつけの新作が出ているじゃないか。
内羽根式の紐靴で名前は「オーディエンス」。
以前からあったと思う外羽根式の革靴は「ウィズダム」。
「ディレクター」と「ウィズダム」と「オーディエンス」って、また憎い組み合わせです。
 
自分のことになってしまいますが、昔から靴にはうるさい方だった気がします。
子どもの頃も、自分で靴を選んでいました。
お金を払うのは親なんだから、生意気な子どもですね。
しかも、当時の普通のスーパーの子供靴売り場の中から選ぶんですから、たいして差はなかったでしょう。
それでも、「選ぶ」という経験を重ねることで、「靴を選ぶ」ということと「靴を気にする」ということの意識が、育ったんですよね。
靴の手入れをすることも、苦にならずにできるのも、靴に意識が向くからでしょう。
妻の靴も一緒に手入れをしたりするのも、その方が合理的だろうから。
 
髪が綺麗とか、爪が綺麗とかって、やっぱり、一緒にいる人が嬉しいですよね。
それと同じように、靴が綺麗というのもあるんですよね。
尖らせるのとは違って、靴や爪や髪などの、人間における先端が綺麗に整っていると、その人の生きる姿勢が整っているように見えるんですよね。
丁寧に生きているんだろうなぁって。
単純なんだけど、綺麗にするって、とても泥臭い積み重ねでもありますからね。
汚く生きるのは、とても簡単。
整っている人、好きだなぁ。

うまく行かない理由。

2019.10.29

物事がうまくいかないとき、原因を探っていくと、自分の都合で人を利用していることがあるでしょう。
これは、個人でも法人でも同じで、自社の都合で他社を利用していると、そのうちに事業が暗礁に乗り上げます。
ということは、これをやっていると、最初はうまくいっても、いつかはうまくいかなくなるわけで、自分の都合で誰かと縁を切ったりというのも、その後、巡り巡ってしっぺ返しがあります。
だから、物事をうまく進ませる判断軸があるとすれば、仁義とか、礼節の類なんです。
礼節については先日書いたものを読んでくれると嬉しいですが、仁義っていう単語も重々しいですねー。
ただ、平たく言うと、「自分のために人を利用するんじゃんくて、人に対して何を与えられるかを考えなさいね」ということなんですよね。
物事がうまくいかなくなるときの「物事」って、大抵は自分の都合なんです。
だから、他の人にとってはどうでもいいことなわけで、自分の都合を、自分の都合がいいように他人を利用しようとして、他人が期待通りに動くはずもないのです。
これを悪用している人もいますが、うーん、ぼくの少ない人生で、そのまま上手く老後を迎えた人は見たことがないんですよね。
伝記などを読んでも、利己的な人が、幸せに最期を迎えられた事例と出会ったことがないんです。
むしろ、最期までそういう人がいるのなら、知りたいですけれど、でも、憧れないんだろうなー。
何かを進めたいと思ったら、目の前にいる人に好意を持つこと。
その人がなりたい姿、成し遂げたいこと、楽しむこと、しあわせであることを、自分は与えられるか。
少なくとも、自分の都合に協力してくれた人が苦しむ姿は、見たくないんです。
そういうことなんでしょうね。

習慣になった?

2019.10.28

昨日は英語について書きましたが、その後、ちょっとした発見がありました。
一日英語に触れないでいると、むず痒くなる。
習慣をつくったことがある人なら、この感覚は理解できるでしょう。
やらないでいることの方が、ちょっと物足りなくなるというか、体の方が「おいおい、何か忘れていることがあるんじゃないの?」と、意識をくすぐってくるのです。
この感覚が今日あったことに、びっくりしました。
え、英語ですぜ〜。
英語の勉強をしていないだけですぜ〜っと。
土曜日に英語を習っていることは先日書きましたが、実は毎日、英語を聞いたり、NHKのアプリとテキストで自習したりと、何かしら英語の勉強をしていたのです。
日曜日はやることが色々と重なってしまい、ちょうどいいから休みにしようかと思って、夕方過ごしていたら、ちょっとね、冒頭の感覚がしたのです。
ということは、ちょっとずつですが、英語の勉強が毎日の習慣になっていたのです。
役に立つことだと思って始めた英語の勉強が、いつの間にか、役に立つとかどうでもよくなって、面白がってやっていたら、習慣になっていた。
こういうこと、もしかしたら初めてかもしれません。
いつか、やらなくなる日が来るでしょうが、来ないかもしれません。
それは誰にもわからないですが、たとえ、やらなくなる日が来たとしても、また再開したっていいんです。
これぐらいゆるゆるな気持ちでいると、面白さって続くのかもしれないです。
ちょっと、この発見は大きいな。

いくつになっても楽しいこと。

2019.10.27

この年齢になっても四苦八苦するものがあるということに、楽しさを感じています。
 
ぼくと妻は今年の九月から毎週土曜日、テンプル大学の生涯教育プログラムで、英語を習っています。
授業の内容は、「There are…」や「Does he…」などの基礎中の基礎を習っているのですが、授業中の会話はすべて英語で行われているのです。
もうね、それだけで、大の大人たちが困り果てたり、言葉につまったりするわけです。
こんなこと、日常ではないでしょう。
それが面白い。
実際にぼくも、「えっ?」「うん?」などと苦戦しまくりです。
授業は約四時間あり、終わった後は予定を入れたくなくなるほどヘトヘトになります。
それでもね、ヘトヘトになりながらも面白いのです。
 
面白さに拍車をかけるのが、四時間の授業を一ヶ月も経験していると、少しずつ成長しているのを実感できる瞬間が訪れます。
最初の頃は、「えっ?」だったものの中に、「あっ!〇〇!」が加わるようになるんです。
ちんぷんかんだった先生の英語の説明にも、「あ、こういうことか」と理解できる瞬間が訪れ、徐々に、その回数が増えてきます。
昔、筋トレをしていたときに、鏡で自分の姿を確認しちゃうような感じでしょうか。
頭の中でわかった瞬間を反芻している自分に気がつきます。
 
人は、いくつになっても成長できるとは、一般論で論じられたりしますが、これを成長ととらなくてもいいと思っています。
だって、楽しいんだから。
「あっ!わかった!」が訪れる瞬間は、いくつになっても嬉しいもんだ。