Archive for 2019.6

横展開は仕事を生む。

2019.6.30

地方の企業がアイデンティティ策定をしっかりやった方がいい理由のひとつに「横展開できる」からが挙げられる。
横展開できると何がいいか。
 
「仕事を生むことができる」
 
協業するもよし、自社工場を拡大するもよし、どちらにせよ、地域の資源を活用しながら、地域の人々に対して仕事を与えることができる。
仕事は人に生き甲斐をもたらし、アイデンティティの柱がしっかり立っているのなら、横展開しても求心力は高まる。
逆にアイデンティティ策定を疎かにして横展開をすると、「あれもこれも手を出して、何がやりたいのか分からない」という見え方になり、求心力は低下する。
 
求心力が高まれば、ユーザーだけでなく、働き手も集まる。
作るのはその地域、だが、売るのは世界。
シャンパンを飲むのに、紙コップってことはないだろう?
グラスも欲しくなるのが、人ってもんだ。
未使用のグラスはどこにしまう?
見せる収納でも、見せない収納でも、使っていないグラスはしまいたくなるのが、人ってもんだ。
単純にここまででも、いったいどれくらいの仕事が生まれるっていうんだ。
そして、この一連の生活時間だけでも、もっとたくさんの道具と心の動きがある。
 
こういう打合せは、わくわくするんだよなー。
さあて、洞察と直感を働かせる時間だ。

ロゴ作りの秘訣(永久保存版)。

2019.6.29

ロゴの作り方に秘訣があるなら、「特定の意味」を加えるといい。
特定の意味とは、「その後の状態」や「導く姿」だ。
単に説明としての意味だけで制作すると、トーンの違いだけで、何パターンも作れることになる。
つまり、別にその案じゃなくてもよくなる。
これがデザイナーがドツボにハマる理由だ。
だが、「説明+特定の意味」になると、違うトーンで制作しては意味がなくなる。
ブラッシュアップは出来ても、方向性を変える修正は別の案になる。
つまり、「説明+特定の意味」で作ると、それでしかありえない、オンリーワンもしくはナンバーワンの案になる。
これを、両極端のアイデアで制作すればいいだけ。
とても簡単。
(単純にスキル不足の人が、秘訣を駆使しても大したものはできないけど)
 
と、ここまで書いて思ったが、これってデザイン全般に対して言えることだなー。
プロダクトなんかもまさにそうだ。
 
説明=名称の頭文字をモチーフにしたり、事業やサービスの内容を表すこと。
特定の意味=使用後のユーザーの状態や、それを表す比喩。または、啓蒙や先導するためのモチーフ。

雑感。

2019.6.28

美味しいアジフライを食べてみたい。
アジフライの美味しさはイメージできるのに、アジフライを売りにしているところって、味ではなく、大きさを売りにしてしまっている。
だから、アジフライを勧められて食べると「カキフライの方が好きなんだよなあ」と毎回思ってしまっている気がする。
タルタルじゃなくて、マヨにしちゃっているところも多いし、それなら唐揚げに走っちゃいますよ。
「鯵が食べたい」と思ったら、鯵のたたきやなめろうに走っちゃうのも、アジフライの本気の美味しさと出会っていないからなんじゃないかと思った。
刺身定食に鯵のたたきが加わると、めちゃ嬉しいもんね。
なめろうで冷汁みたいにするのも、めちゃ美味しいもんね。
小麦アレルギー発覚してから、家にパン粉ないし。
(フライ程度だったら食べれるんだけど)
うーん、美味しいアジフライを食べたい。

『しらずしらず』を読んでいる。

2019.6.27

まだ途中だが、『しらずしらず』という本を読んでいる。
原著はアメリカの本で、「人の選択には無意識が作用している」という内容なんだけど、「適切なフォントの選び方と整えられた文字組の方が選択されやすい」という、「流暢さ効果」のデータは多くの企業が参考にした方がいいだろう。
だから、チラシ一枚、バナー一枚、名刺一枚から、手を抜いちゃいかんぜよ。
 
チェックのときに「素人っぽいね」と言うことが度々あるが、若手の成長の第一歩は、ここの線引きが身につくかどうかにかかっている。
年鑑なんかをすべて分解して、トレースするのが、一番成長できる。
デザインを教えるときに、全員にやらせていること。
部活っぽく言うと「デザインの走り込み」。
だから、少なくとも三年間はやらせる。
 
そして、購買行動における「偶然」や「運」と言っていたことが、無意識の総体とも言えるなと思った。
あれ? 大学時代に習ったことに立ち返っているな。
ああ、そういうことか。
特にここ数年「江口さんの言った通りになった」と言われることが増えているが、「詳しく説明すると嘘っぽくなるけれど、たぶんこうなりますよ」と言った曖昧なことを覚えていてくれたクライアントは凄い。
長い付き合い、短い付き合いになる違いは、こういったことを覚えてくれているかどうかな気がしている。
 
直感を働かせるには、説明しきったらダメだ。
そのためには、言葉の力を信じて、事前に内省で言葉を出し尽くさなきゃならない。
ぼくらが耐えなきゃいけないのは、説明しきらない孤独だ。
早く楽になろうとしちゃ届かない。
いいものを、作りたいだろ?
売上をあげて、信じてくれた依頼人や社会に貢献したいだろ?
歴史をアッと言わせたいだろ?
こうやって自分を鼓舞して、無意識の直感を鍛えていく。
それが、今のぼくに繋がっている。
 

ふざけた要素。パート2。

2019.6.26

昨日に引き続き、ふざけること(ユーモア)についてです。
思えば、ぼくはこの「ふざけること」について、事あるごとに考えています。
特に、「笑いになるおふざけ」と「笑いにならないおふざけ」の線引きについて、考えているような気がしています。
 
例えば、学生時代の教科書に載っている偉人の写真への落書き。
やったことがある人も、やったことがない人もいるでしょうが、やったことがある人って、そのまま誰にも見せずに自分だけの楽しみで我慢できない気がしています。
誰かに見せちゃうまでを含めて、落書きってあるような。
誰にも見せずに漫画を描き続けることはあるでしょうが、漫画を描くってかなり真面目にやっているでしょう。
ぼくも昔、いろいろ描いていました。
ただ、漫画を描いて見せたときの「おもしろい!」と言われるのと、教科書の落書きを見せて「ブハッ!」と笑わせるときの、笑いの性質ってちょっと違うんです。
ビジネスの現場での「おふざけ(ユーモア)」って、どっちの性質も混ざっていないと、高尚な芸事や、単なるバカに映るんです。
 
先日、海外の缶ビールのコマーシャルを見ていると、環境に配慮した缶を売りにした内容にふざけた要素が混ざっていて、「やられた」と思いました。
日本だとクレームが来ちゃいそうですが、どこまでスルーしていいかもあると思うんですよね。
以前、ぼくも好きだった「ヨルタモリ」というテレビ番組についての制作話を読んでいたとき、最近のテレビ番組で多い注釈文をいっさい入れないで作っていたけれど、まったくクレームは来なかった、と書いていました。
「ユーモアが大事」とどれだけ唱えられていても、ユーモアを発揮しているようなものと全然遭遇しないのは、作り手もクライアントも、どこかでビビっているというのはあるんでしょうね。
そういうぼくはどうなんだろう、と考えてみたりしながら、今日も「おふざけ」をどこかに混ぜたいと狙っています。