Archive for 2019.2

味と、しつらえと、人。

2019.2.28

人に紹介できるお店というのを考えることが多い。
すると、いつもたどり着く答えは同じだ。
 
味と、しつらえと、人。
 
この三つが揃っていなくても通う店というのはできるだろう。
立地でもいいと思う。
しかし、「人に紹介できるお店」となると、この三つが揃っていないと難しいのではないだろうか。
味としつらえがよくても、接客が悪かったら、紹介相手が気を悪くするかもしれない。
接客だけ良くても、店内が汚ければ、紹介する人を選ぶだろう。
味が悪ければ……もう何も言えない。
 
これは、なにも飲食店に限ったことではなくて、人を紹介するときも同じではないだろうか。
強さと、清潔さと、雰囲気。
人に誰かを紹介するのに、何もできない人を紹介するのは稀だろう。
悩み相談に乗るのは、悩みを持っている人を紹介してもらうとは言わない。
頑張ってよく言ったとしても、「出会い」とかって言いそうだ。
不潔な人を誰かに紹介……されても困るだろうな。
そして、雰囲気。
何かしらの強さを持っていて、不潔な感じがしないのに、いつも怒ってばかりいたら、紹介するのは難しいだろう。
紹介された人に怒られたら意味がわかんないもんね。
 
こうやって、お店と人を考えてみると、けっこう近いんじゃないだろうか。
あ、法人のお店もあるか。
そういう意味でも、お店は、やっている人が表れるのかもしれないな。

ひとつのかたち。

2019.2.27

慣れないことをやると、疲れるよなぁ、と思う。
ただ、それが論理的にやれば解決できるのなら、話は早い。
枝分かれしている可能性論を洗い出して選べばいい。
そして、話の分かる人と話せればことは進む。
 
会計関係で、最初に窓口で受け答えをしてくれた人は「分からない人」だった。
偶然通りかかった上司らしき人が話に入ってくれて、ぼくの考えていることの方が正しいことが分かり、とても助かった。
その後は、話が早い。
あっという間にことが進む。
 
人間社会のトラブルのほとんどは、これで解決できる。
これをややこしくするのは、「分からないのに分からないと答えられない人」が入る場合だ。
今日はそれが2回あった。
プロ三人と、間に入った二人。
ここで明確な差が生まれる。
プロの人達は、分からないことを「分からない」と答えてくれる。
どちらでもいいことは、「どちらでもいい」と答えてくれる。
これも、成長のひとつのかたちなんだよな。

分かる人達。

2019.2.26

日曜日の集まりはよかった。
よかったと言うと、善い悪いのことを言っているように思われるかもしれないが、純粋に楽しかった。
「里山まるごとホテル」と「東向島珈琲店」がイベントをやっていて、その関係者の食事会で、「分かる人」同士が集まると、こういう会になるんだと勇気をもらう時間だった。
 
ぼくは最近、「分かる人と仕事をしたい」と話すようになっている。
わかるというのは「何を言っているか理解する」という意味ではなくて、「あぁ、そうだよね〜、わかる〜」という共通認識のようなものだ。
 
いまの世の中、こういった共通するものがない人と、仕事をしがちではないだろうか。
そこには「どんなに分かり合えない人でも、話し続ければいつかは分かりあえる」という幻想がある。
そして、活発な議論が善とされる。
 
でもね、そもそも議論になっている時点でおかしいと思わないか。
普通に話し合って進めていけばいいものを、議論として戦っていること自体を疑った方がいいんじゃないかと、ぼくは長く感じていた。
ぼくはいま「普通」って言葉を使った。
つまり、ぼくにとって話し合うことは普通だが、議論することは普通のことじゃない。
もちろん、これは人によって意味合いが異なるのだろうが、こういうことも「分かる」人と仕事をしたいと思っている。

デザインコンペについて。

2019.2.25

そういえば、独立してから、コンペというものにほとんど参加していないことに気がついた。
そういう話があったとしたら「気楽にやりますよ」と前置きをつけるだろう。
デザイン関係のコンペというのは、依頼人が複数社の事務所に声をかけて案を出してもらい、その中から気に入った案を出した事務所に仕事を依頼する流れだ。
コンペ費といって、落選した事務所にも、案を出してくれたことへの報酬を支払うこともあるが、ぼくの経験した限り、極めて異例だ。
だから、ゼロかイチかの世界。
 
依頼人には、こういうコンペは勧めていない。
というのも、依頼人としては、ひとつひとつの事務所にかける時間や労力が参加数分減ってしまうことになる。
つまり、人と人の関係性が希薄になるということ。
同じように、0円の仕事を、他の依頼人の仕事と同じ熱量でやる事務所もない。
報酬の話を抜きにしても、「他と比べさせて」と言われて頑張れる人というのは、何か別の欲望があるものだ。
だから、基本的にはコンペになると、少ない情報の中で、あり合わせのパターンを組み替えて提案することが多くなる。
そうじゃない場合は、仕事のない若手が熱量を持って行うのだが、未熟だから仕事がないのだ。
 
ここまで話していると、コンペが悪いことのようにしか話していないが、「気楽にやっていい」という側面もある。
普段僕らは、依頼人の事業規模や求心力の規模なんかも考えながら提案をする。
しかし、気楽にやれるのなら、そんなものを度外視してやってしまうこともできるだろう。
ま、予算が合わないって言われるでしょうが。

お金を悪者にしない。

2019.2.24

仕事柄たまに、人の行動が読めるように思われるが、そんなことできるはずもない。
ただ、ほかの大人たちと違うのは、「人としての感情に正直であること」と「自分の行いを立派なことと思っていないこと」と「お金を悪者にしないこと」だろう。
 
ニーズを満たそうとすれば、事業のアイデンティティは崩壊する。
自分の行いを立派なことだと思えば、悪者が生まれる。
お金を悪者にすれば、お金に嫌われる。
 
個人も法人も、アイデンティティが崩壊すれば、不健康な仕事になるか、仕事ができなくなる。
自分の行いや事業の正当性は、そうじゃない人たちを、攻撃せざるを得なくなる。
すると、物言えぬ弱者であるお金を攻撃する。
しかし、対価を示すコミュニケーションツールであるお金を悪者するということは、ほかのどんな対価からも嫌われるということだ。
だから、お金を悪者にする人は、他の対価でやりとりしたとしても、うまくいかなくなる。
 
事業というのは、インターネットを介そうが、対面であろうが、対価というコミュニケーションで成り立っている。
気持ちいいことに対価を支払う。
やってくれたことに対価を支払う。
助かったことに対価を支払う。
対価の支払い方は、代わりに何かをすることかもしれないし、お金かもしれない。
だから、お金を悪者にする考え方というのは、対価そのものを悪者にすることと変わらないため、対価そのものから嫌われることになる。
 
じゃあどうすればいいかって?
感情に嘘をついて、無理をするから、正当化しなくちゃいけなくなって、稼げない自分を棚に上げて攻撃をするようになるのだから、感情に正直になって、無理をしなければいい。
そうすると、人の行動がわかるように見えるんです。