Archive for 2013.1

BJC『VANISHING POINT』の後

2013.1.31

今これを書いているのは、Blankey Jet City『VANISHING POINT』を観た直後だ。走り書きだが、そのまま載せた方が良いと思った。
 

 
観るまでは「ライブのように当時の興奮を味わえるだろうな」と思っていたら、開始10分程度で脆くも打ち砕かれた。僕は涙で一杯になった。溢れんばかりの涙で顔をくしゃくしゃにしながらも、目に焼き付けるために瞬きも惜しい。と思いきや、やっぱり演奏は格好良く、自然と笑顔から叫び声が出てくる。「これで終っていく」という感情よりも、13年経った今では「終ってしまったライブが生き返ってくる」といった懐かしさ混じりの興奮だった。けれど、音がぎくしゃくし始めた辺りから、心が締め付けられるように悲しみの涙がこぼれ、当時語られなかった解散に至るまでの空気感を、傍で触れているかのようだった。
 
しかし、僕は知っている。誰が何と言おうと、僕は『LAST DANCE』(横浜アリーナでのラストライブ)は最高だったし、すげぇカッコイイと今でも興奮できる。その最後の横アリを知っているから、途中の痛みを見ていても打破できると希望を持って見続ける。そして、音で壁を突破した瞬間の映像、僕は歓喜した。
 
その後は、ブランキー特有の圧倒的な疾走感と破壊力で最後まで突っ切った映像で、色褪せない格好良さに興奮した。
 

 
それにしても、監督の翁長さんの編集や言葉が、本当に僕らもツアーに同行させてもらっているような心地で見せてくれた。「ドキュメント~」って付いているものを含め、作られたものは意図とか偏りがあったりするのは当然だけど、これは「ツアー」だった。
 

 
解散当時僕は高校二~三年で、偏差値30台の公立にくるような教師たちを馬鹿にしながら授業を昼寝で過ごすか、キレてるか、無気力に惚けてるかのどれかだった。体のこと、友人の死など生まれてから続いた生き死にの別れ事が積もりに積もって、将来はどうでもよかった。それでも、ブランキーをずっと聴いていた。格好良かった、それだけで良かった。
 
今でも一番聴いているバンドだ。本映像中に誰かが「アンコールをセッションで終らせて、やる度に曲が増えていくバンドなんて、後にも先にもないよ」と言っていた。言葉にされて初めて気が付いたけれど、そうだ、こういうことを僕はカッコいいと思っていたんだ。僕が写真を撮り、作品をつくっていたりするとき、後にも先にも出てこない、「今」というこの瞬間に燃え尽きる、そんな制作をしているのは、ここだったんだ。俺は音楽を選ばなかったけれど、ブランキーはしっかりと俺に繋がっていて、俺はさ、すげぇ支えてもらっていたんだ。
  
結局さ、「お前はまともな道の方が合ってるよ」という後押しから浪人をして、勉強する楽しさを覚えて今に至るんだけど、そん時の一日中勉強している根気だとか、突破する楽しさだとか、強さだとか、格好良さっていうのは青春時代を過ごした仲間とか聴いていたブランキーに影響を受けてんだよね。それが13年経った今でもしっかりと続いていて、俺は制作ができている。
 

 
そんで、この映像を出してくれた人達、ありがとう。

物事の側面

2013.1.30

長所だとか自己PRや売り文句などで、「まじめで粘り強い」や「切り替えが早く……」などを見ていると、「一側面を見るということ」と「程度問題」なんだと思うんだよね。
 
反対側の側面から話せば「まじめで粘り強い」は「頑固で融通が利かない」だし、「切り替えが早い」のは「飽き症」だろう。そして、どちらの言葉を選ぶかは、その性質でどれだけ上手く問題を解決できたかどうかで、上手くいっていないことが多かったり、解決出来たとしても周囲から反発を受けていたら後者のような悪い言い方をされてしまう。
 
どちらが良いということを話しているのではなくて、どちらも同じ性質のことを話しているということなんです。何かや誰かを掬い上げるきっかけって、ここを把握するかどうかに係っているような気がしている。広告のコピーを書くこともあったが、いつも性質の把握と公正であることに気をつけていた。
 
何かね、一側面だけを取り上げて「いいでしょ? だから買いなさい」と叫びまくるコピーで街が支配されているように思えるんです。もしくは雰囲気で誤摩化して「何となくいいでしょ? だから買いなさい」と湿りっけを帯びて背後を取るようなもので溢れているように思えるんです。
 
そういえば僕は「強い」や「特殊」と言われていましたが、それも「自信家で勝ち気」や「異端」ってことでしょう。大事なのは、「程度問題(性質)の把握」と「公正さ」なんじゃないだろうか。

格好良い大人

2013.1.29

おそらく多くの人達が体に関わることを色々試すだろうが、僕の場合は「体に良い(と言われている)ことを取り入得れる」よりも「自分の体が求めていること」や「意識が求めていること」を試すことが多い。しかし、今日はやばかった。
 
普段の運動は朝一番に行い、その後の昼食に高栄養を摂取するのだけれども、今日は昼食後に運動をしたら吐きそうになるわ、食道らへんが痛くなるわで大変だった。でも歩かない、止まらない。どんなにペースが遅くなろうとも、ゴールに着くまでは走ってやる。走り続けてやる。
 
そうすると、目の焦点が合わなくなってくるんだけど、ちゃんと目的地点までは行けるんだよね。ガッツがあるとか、意地とかじゃなくて、僕は弱い。弱いので一度でも「キツくなったら止まる」なんて中途半端な甘さを覚えてしまったら、極上の蜜の味ではなくて、不純物が混ざった甘さで充分だと言い訳すると思う。
  
言い訳を並べるインテリ風よりも、走り切る馬鹿の方が格好良い大人だと思うしね。

普通のこと

2013.1.28

僕たちの職業(藝術家、美術家、写真家、デザイナー、クリエイター)というのは、一般的に思われているほど特別なことなのだろうか? 誰だって自分の部屋を自分が心地良くなるように模様替えをしたり、掃除をしたりする。食べたいものを食べるために料理をする。
 
それらが人さまよりも秀でるように技術を積み、感覚を磨いた結果に職業としているだけであり、そういう意味では職人と変わりない。職人と思われていないような事務職だって、僕らには藝術的とも思えるような速度でキーボードをタイプして文字を打ち込んでいく。僕らというのは、そういうことと同じだと思っている。だから、たくさんの職業の方々と話をして、仕事を発展したいと思うんだが……どうして女性を紹介されそうになるんだ?

肉から考える

2013.1.27

肉の塊を食べていると、細切れの肉をたらふく食べているのとは異なった満足感がある。歯と舌を目一杯使って、口の中で細かくなっていく塊は、最初から細かい肉とは違って、自分で細かくしていることで味わえる旨さがある。
 
そんなことを考えていたら、「つくることと一緒だ」と気が付いた。ディレクション能力を培うためもあって、細分化された職業内容を縦横断してきたが、チームを動かして得られる達成感と、全てを一人でやり尽くしたときに得られる達成感は違う。
 
どちらが優れていると言っているのではなく、「違いを知っている」というのは良かった。内容によって使い分けることが出来るが、それ即ち、中身を洞察する力が必要ってことなので。子どもの頃からやってきたことだ。