Archive for 2010.8

web

2010.8.29

http://www.maroon.dti.ne.jp/eguchimasaru/html/

ちゃんと更新をしています。トップページの写真は、先日の墓参りの墓石から見上げた空です。「何気ない一コマ」とは写真を撮る人からよく言われる台詞ですが、たとえ「何気ない一コマ」だろうが、僕達はしっかりとレベルを高めて撮れる必要があると考えています。

そして白盤では、こういう使い方もありだな、と思っています。web先行発表や、惰性ではなく、しっかりとレベルを上げての過程を見せて行き、webならではの可能性を。

数字の話

2010.8.27

 最近は数字に関係することが度々ある。

 たとえば、先日の千住博さん本からの流れで村上春樹さんの『風の歌を聴け』を読んだことにも、数字関係は生じた。正直に告白すると、僕は村上春樹さんの小説を一冊も読んだ事がなかった。どこかで避けていたのかもしれないが、それ以上に、読むべき本がその時その時にあったのだ。

 そして、漸くにして村上春樹さんの小説を読むことになったのだが、「なるほど!」と唸ってしまった。そう、彼の文体や構成、そして文字から漂ってくる雰囲気、これらを1979年に書いたのだ。そうなると、言い方は悪いが売れている作家たちにも彼を真似ている(影響を受けているの範疇を超えている)人達がいるではないか、ということに気付くのだった。ぐいぐいと、僕は文字から漂ってくるビジュアルに引き込まれて行ったのだが、今日は数字の話なので、話を戻そう。

 僕は『風の歌を聴け』を文庫本で読んだのだが、この初版が、「1982年7月15日」なのだ。何て事はない数字だが、「1982」は僕の生まれた年、「7月15日」は僕のばあちゃんの誕生日のはずだ。ただこれだけの事なのだが、こういうことに避けたがい糸のようなものを感じるのだ。いつかは読むべき本だったのだろうと。

 もう1つは、今日、墓参りに行っていた時の話だ。いつものように、雑巾で墓石を拭いている時、両側面に文字が彫られていることに気付いたのだった。正確にいうと、彫られている文字が気になったのだった。右側には「江口政蔵、1969年3月12日にー」と彫られており、僕は初めて、祖父の名を知ったのだ。これも正確に言うと、初めて意識したのだ。「政蔵」という名だったのだ。そして、祖父の死後、十三回忌の時に僕が産まれたというわけだ。十二支が一回りして、魂がやってきたということにでもしとこうか。病気になっても、車に撥ねられても、山から落ちても、雪山で迷子になっても、雪国プレハブ小屋で夜を明かしても、台湾野宿で野犬に囲まれても、その他色々あっても大事に至らなかったのは、何かに守られているような気がしていたのだが、やはり祖父やご先祖やその他のパワーが守ってくれていると思えっても良いのではないだろうか。

 ここでも墓参りのことを度々あげていたりするので、僕はけっこう行っているように思われるかもしれないが、少し、横着しているところもある。僕の周りでは色々な人が亡くなり、(物理的な意味で)場所も無くなっていった。その人達、場所達を総じて、先祖のお墓に参っている節がなくもないのだ(全部には行けないので)。異なるお墓の時もあるが、参る時にはいつも同じ事を思うのだ。「失ってからは何も言えない」と。コミュニケーションのためのコミュニケーションは必要がないと今も考えているが、「あの時、何か一言でも言えていたら、あの人は、あの場所は今も生きていたのでは」と悔やむことがある。しかし、同時に、「やりたいことを一生懸命やり通す」という生き方になっていったのは、失ったものの数と比例している。迷った時に現れるのは、いつも彼らであり、僕の背中を押してくれる。そして、死は他人事なのだ。当事者達と話をすることはなく、他者の頭の中にだけ、現れるのだ。しかし、その強さは大きい。

drunk afternoon その2

2010.8.23

http://www.drunkafternoon.com/

よろしくお願いします。メンバーのケツを優しく叩いています。コンテンツの増える速度は彼ら次第です。皆さんも彼らのケツを叩いて下さい。

先達の本を読む

2010.8.22

 先日も書いたが、押井守さん『凡人として生きるということ』、千住博さん『ルノワールは無邪気に微笑む』を読んだ。読んでいて驚くのが、かぶっているぞということが度々出てきたことだ。

 たとえば、観た作品の感想や評を学生時代に書いていたということ。僕も大学時代に「ブックレポート」という学術的読書感想文を何度か課題提出させられていた経験から、展覧会などを観ても学術的展覧会感想文を書いていたのだ。学術的と聞くと難しく思われるかもしれないが、良かった点、悪かった点、自分だったらどうするか、などを背景、知識も用いて論を立てて、感想文をかくというだけなのだ。基本は感想文。しかし、どこかの批評家のちんぷんかんぷんな言語と文法で読み手をけむに巻くような展覧会批評を読むよりかは作ることも、書くことも力になったと思われる。

 あとは、健全な生活をしているということ。もちろん、制作はハードだし、無理な姿勢も続く。けれども、朝起きて夜寝るという、所謂、普通の生活をしているのだ。僕も度々感じるのだが、夜型、酒浸りなどの偏見に満ちあふれたアーティスト像のように生きている人間から良い作品を生み出しているとは思えないし、ほとんど会った事がない。制作をしていてやはり痛感するのが、人間は自然なのだ、ということ。つまり、制作の質を高めようとすればするほど、健全な生活になるのだ。たとえば、学生時代、僕は夜中まで作業したり、ビールでお腹をみたしていたこともあった。しかし、制作時間も今の方が多く、身体への負担も大きい今の方がどうやら健康体らしいのだ。ちょっと前に健康診断にいったところ、学生時代は0.5だった右目の視力が0.9まで復活していたり、結果を見た医師からは「すごい健康ですね〜!」と、こちらが恥ずかしくなるほどの状態だったのだ。

 良い仕事は良い身体から、良い身体は良い心持ちから。

 似ている部分もあれば、似ていない部分もあるのは当然だけれども、良書だった。


 良書といえば池田晶子さんの『14歳の君へ』を一番に僕はあげる。この本は『14歳の哲学』をもっとやさしい文章にしている版とも言えるのだが、僕は前者の方が断然お勧めする。これは若くして読んでもいいだろうし、それこそ大人たちが読むべき本だと考えている。そして、僕はこの本を人によく貸しており、今も友人が借りている。そして、僕はこの本を中古で買った。それなので、この本には様々な人の手垢が付いているはずであるのだが、だからだろうか、返ってくる度に本の存在感というか厚みというか、豊潤さが増していっているような感じがするのだ。本は文字、つまりはインクが記号として載っているだけなのに、これほど豊かになれるのだ。それって凄い単純で、凄い人間らしいことであるとともに、僕らも頑張らなきゃいけないな、と勇気づけられるのだ。

土俵

2010.8.21

 押井守さん、千住博さんの新書本を立て続けに読んでいる。そこで共通して出てくる内容があり、僕もそうなのだが、「やりたいことを徹底してやり抜く」ということが大切なのだ。作品を見せ続けるということは、色々な批判も受け続け負けっぱなしのこともあるけれど、土俵にあがることを止めなければ、いつかは勝ち星が増えている。勝ち星が増えたからって余裕を見せて土俵を降りるのではなく、土俵に居残ってあがり続ける。

 そして、狭い中の仲間(業界人)だけで満足するのではなく、外に向かって行く。外という土俵にあがっていく。僕がラッキーだな、と思うのは、業界外の人達に作品が好まれたり、反応があるということだ。正直言って、今の美術界や写真界は外に向かっていない。もちろん、その中でも知ってもらえたりしているから、ちょっとラッキーだなと思えるのだが、作品を買ってくれたり、仕事を振ってくれるのは、外の人達の方が多い。そして、僕はいつも未知のものに挑戦していっている。未知という土俵に上がるのが楽しみでしょうがないのだ。

 良い作品を創っていけば必ず広まっていくということを、皆もっと信じていいのにな、と思うのだ。そうではないから、変なうんちくでけむに巻いたり、アーティストっぽく取り繕ったり、卑屈になってしまうのだ。大切なことは、良い作品を創るということ。サッカー選手が良いプレーをしたり、料理人が美味しい料理を作ったりするのと、全く同じことなのだ。


↓ここに良い文章を書く人がいます。

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