数字の話

2010.8.27日々のこと

 最近は数字に関係することが度々ある。

 たとえば、先日の千住博さん本からの流れで村上春樹さんの『風の歌を聴け』を読んだことにも、数字関係は生じた。正直に告白すると、僕は村上春樹さんの小説を一冊も読んだ事がなかった。どこかで避けていたのかもしれないが、それ以上に、読むべき本がその時その時にあったのだ。

 そして、漸くにして村上春樹さんの小説を読むことになったのだが、「なるほど!」と唸ってしまった。そう、彼の文体や構成、そして文字から漂ってくる雰囲気、これらを1979年に書いたのだ。そうなると、言い方は悪いが売れている作家たちにも彼を真似ている(影響を受けているの範疇を超えている)人達がいるではないか、ということに気付くのだった。ぐいぐいと、僕は文字から漂ってくるビジュアルに引き込まれて行ったのだが、今日は数字の話なので、話を戻そう。

 僕は『風の歌を聴け』を文庫本で読んだのだが、この初版が、「1982年7月15日」なのだ。何て事はない数字だが、「1982」は僕の生まれた年、「7月15日」は僕のばあちゃんの誕生日のはずだ。ただこれだけの事なのだが、こういうことに避けたがい糸のようなものを感じるのだ。いつかは読むべき本だったのだろうと。

 もう1つは、今日、墓参りに行っていた時の話だ。いつものように、雑巾で墓石を拭いている時、両側面に文字が彫られていることに気付いたのだった。正確にいうと、彫られている文字が気になったのだった。右側には「江口政蔵、1969年3月12日にー」と彫られており、僕は初めて、祖父の名を知ったのだ。これも正確に言うと、初めて意識したのだ。「政蔵」という名だったのだ。そして、祖父の死後、十三回忌の時に僕が産まれたというわけだ。十二支が一回りして、魂がやってきたということにでもしとこうか。病気になっても、車に撥ねられても、山から落ちても、雪山で迷子になっても、雪国プレハブ小屋で夜を明かしても、台湾野宿で野犬に囲まれても、その他色々あっても大事に至らなかったのは、何かに守られているような気がしていたのだが、やはり祖父やご先祖やその他のパワーが守ってくれていると思えっても良いのではないだろうか。

 ここでも墓参りのことを度々あげていたりするので、僕はけっこう行っているように思われるかもしれないが、少し、横着しているところもある。僕の周りでは色々な人が亡くなり、(物理的な意味で)場所も無くなっていった。その人達、場所達を総じて、先祖のお墓に参っている節がなくもないのだ(全部には行けないので)。異なるお墓の時もあるが、参る時にはいつも同じ事を思うのだ。「失ってからは何も言えない」と。コミュニケーションのためのコミュニケーションは必要がないと今も考えているが、「あの時、何か一言でも言えていたら、あの人は、あの場所は今も生きていたのでは」と悔やむことがある。しかし、同時に、「やりたいことを一生懸命やり通す」という生き方になっていったのは、失ったものの数と比例している。迷った時に現れるのは、いつも彼らであり、僕の背中を押してくれる。そして、死は他人事なのだ。当事者達と話をすることはなく、他者の頭の中にだけ、現れるのだ。しかし、その強さは大きい。

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