Archive for 2008

年末

2008.12.29

3日間かけての大掃除だが、もうそろそろ潮時だ。そんな訳で毎年恒例の、「エグチマサル宅で飲み明かした年末は皆で大掃除しましょうの会」はやらないかもしれないが、もしかしたら創作場の床掃除をするかもしれない。

大掃除をしていると、数年前に友人たちからいただいた自家製写真集がでてきて(予想通りだが)、一段落してからそれらを見始める。涙腺が少し緩みながら見進めていくと、「こういう作品がもつ強さと弱さ」を思い出してくる。他の人からみると、びた一文たりとも払いたくないような代物だが、ある人にとってはとても強く胸を打つ作品だ。おそらく作品ともいえないような物たちなのだが、ある者に対しては作品以上の存在として心の内奥に棲まう。しかし、私たちは作品によって、時代も文化も超えた人々に対して感銘を与え、創造性を豊かにしなければならない。

先日、ポートフォリオにアップしてもらった『止揚』ですが、昨日終了したカラーイメージングコンテスト2008で展示させて頂いた『止揚と共生』に使われていました。『止揚』を分割出力した後、ボード紙に石膏で埋め込み、その上からペイントを施したのが『止揚と共生』です。

カラーイメージングコンテストや写真新世紀などのコンペもそうですが、今年もけっこうな展示量をさせて頂き、また御来廊下さった方々から多くのお言葉を頂き、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。健やかに、朗らかに皆さまが、年越しを過ごせることを願っております。
今年もありがとうございました!

自分はここ2、3年変わらずに創作の年越しになります。

27

2008.12.25

クリスマスとは程遠い生活で、朝から水ばり用の板に残った水ばり用テープの除去をする。板ではなくてパネルに水ばりをすれば、こんな面倒臭いことはしないですむ(それとも簡単なやり方があるのか?)が、小品でパネルだと「平面」という感触がなくなってしまうように思えて、板に水ばりをし、完成したら剥がして裏打ちとゲタ装着というとても遠回りなことをしている。

ここで鍵となるのが「感触」という言葉だろう。

感触にも色々な種類があると思われるが、この場合では「エネルギーが回る」ということや、「巡る」、「繋がる」というようにも言えるだろう。たとえ建物内にいようとも、地球という大地の上に存在し、脳天を抜けて地球全体に巡る、そんなエネルギーの流れを子どもの頃から感じていた。成長するにしたがって、その流れを感じるのが意識しなければなかなか難しいものになっていってしまっていたのだが、創作に全てを委ねるようになってからは再び子どもの頃のようになっている。

たとえ同じ筆やカメラであっても、「感触」を得たときには自ずと笑みがこぼれ、自分を取り巻く空気にさえ感謝の念を抱く。しかし、テープを剥がし終わる頃にはすっかり日は沈み、上半身が逆三角形に痛み、予定していた創作場の大掃除は延期になる。

予定外の時間ができたので、秦さんにお勧めしてもらった『the doors』の映画を観る。コミカルに作られていない音楽映画や音楽を感じる映画は好きなので、かなりハマった。ジム・モリソンといえば27歳での夭折としか知識を持っていなかったが、来年、僕もその年齢になり、7と2は好きな数字でもある。ジミヘンやC.コバーンもその年齢だった。けれども、好きな数字をあげるのならば1〜10までどれも好きであり、それらを組み合わせた数も好きなので、特に意味は無くなってしまった。

えぐっちとぐっちょん

2008.12.24

えぐっち です。高校時代、というか自分の人生上ある友だけが使っていた呼び名がある。ぐっちょん。最初、よくわからなかったので無視していたら、「ぐっちょん、インジャパン」と余計にわからない呼び名になってしまっていた。酔ったときに行うプロレスではいつも負かされ、友の車での卒業旅行でS県に入った途端に「これボードの上に出しといて」と、どこかのチーム名が入ったプレート?を手渡され、「勘弁してくれ」と思っていたらそれを知ってか知らずか、一人テンションをべらぼうに上げている友がそこにいた。

書こうと思っていたことからだいぶ外れてしまった。

名前である。僕は名前というのは本来、記号だと考えている。元々は「あれ」や「これ」では便宜上困る対象物につけられる、円滑なコミュニケーションツールのためのものであり、それが深まると、「=(イコール)」としての記号から、意味が先行しだす。例えば「糞」という言葉がある。本来、排泄物を指しているはずだが、その意味、排泄という昔から浄化の対象として存在していた名前が、罵るための言葉「クソが」というような使い方もされ、そこでは、排泄物という形は見て取らないだろう。
M・デュシャンの『泉』という作品の一側面にも、そのような働きかけがなされていたのだけれども、単なる意味の掛け合い、つまり、藝術を遊びにしてしまった。しかも、キリスト教圏ではなく、宗教の自由を謳っている日本では、その掛け合いすら知らぬまま取り入れてしまったために、単なる遊びの要素だけが強まってしまった。

その代表的な事柄が「写真とは・・・」と言ってしまう方々である。意味の部分を彼らは高らかに述べているのだが、そんな意味は誰にも伝わっておらず、それにも関わらず、一人一訳かのような跋扈を煽っている。何故今になっても絵画が藝術として存在しているかの理由の1つに、彼らは、絵画全体に責任を押し付けるのではなく、印象派、表現主義などのように活動している本人たちに責任がかかるようにしていたことが挙げられる。勿論、彼らの手記などには「絵画とは・・・」や「藝術とは・・・」という言葉が出てくるが、自分たちの立場を名乗ることで向けられる批判を絵画にすり替えるようなことはしていなかったと思われる。

しかし、「写真とは・・・」と述べるだけの方々は、自分たちは好きに遊んでいるだけにも関わらず、価値を下げてしまう責任というのは写真それ自体に投げてしまうのである。この価値の低下を食い止めるためには、一度、全てを土俵にあげて考え、闘うことが必要なのではと考えられる。その混沌の先にあるのが、たとえ闇であろうとも、光であろうとも、混沌と秩序が統合され洗練された、記号も意味も超えた、美しい作品と出会えるのではないだろうか。

※『最期の自然』が漸く形となってきたので、ちょくちょく見て頂きたいと思っています・・・という主旨のことを書こうと思っていたら、年末で誰もいないのでは?という状況でした。

蓮根と存在

2008.12.22

「鼻炎には蓮根がいいですよ」と教えてもらったので、ここ一週間ばかり蓮根を食べている。専らきんぴらか、中華風のきんぴらかのどちらかだが、蓮根を見ていると「お前ってすごいなぁ」と思えてくる。泥の中から生み出され、水分の多い泥を体中に纏っているが、その皮をむき、水もしくは酢水に浸けていると純白の君が現れる。そして、サクサクとした食感と何にでも合う融通さ、泥と穴だらけの見た目からは想像を遥かに超えるものではないだろうか。しかし、この蓮根の性質というのは実は、とても大切なことを私たちに伝えているように思えて仕方がならない。見た目ばかりも求めていると、形骸化か生じ、結局「何もない」(正確には低質なものしかないだが・・・)ということになる。そして、「泥」という自然が、つまり、土という大地が直接に生命をつくりだしているということと、「穴」という私たちにも当たり前に存在しており、案外、その穴に惹かれる性質があるのではないかということが、蓮根にみえてくるのだ。と、いうことは「見た目が全てじゃない」ということよりも、「醜いとされていることにも惹かれる」ということでもあるのではないだろうか。

話は変わり、今日のような風に当たっていると、次のように思えてくる。

「僕を連れて行っておくれ。体が邪魔ならば、喜んで捨てよう。魂が邪魔ならば、喜んで我を忘れよう」と。

以前にも書いたと思うが、僕の地元である朝霞という町は坂が多い。以上なぐらい多いと思われるが、そのために風が吹いていなくても、すぐに風を感じることができるのが朝霞である。走れば走る程、風が自分の周りにいることを知らせてくれる。いつの頃からか幼い時なりに、重力を使った方が速く風を抱けると思っていたのか、色々なところから飛び降りていた。着地を失敗したり、地面が砂利だったりするとかなりの痛みを伴うが、真っ白い部屋に管理されて存在しているよりも何百倍も心地よかった。機械のような人間たちよりも、たとえ見えなくても感じることで見える生命たちの方が、自分を導いてくれる者たちだと思っていた。

一人や一つじゃあ、世代じゃないんだよ

2008.12.16

ここ数日、『光学装置の記憶』の創作が進んでいる。今年の9月に一段落し、他の作品が間に入り、現在2作品を創作しながらの進展だ。

以前にも書いたことがあるが、ある作品(B)が進むと別の作品(A)への考察が深まり、結果として作品(A)が昇華される時がある。そんな時には決まって「質を下げるだけじゃないのか?」という疑念が頭をよぎるが、大抵、良い結果となる。そして、その結果が再び作品(B)に反映される、見た目には現れないようなものであっても。そのようなことがあると、一見別々に存在しているようにみえている作品たちが相互関係をもっている面白さを楽しんでしまい、近作とは呼べないような過去の作品を引っ張りだしては乾杯をしたくなる。

そして、作品への楽しみとしては、ここ最近、同世代の作品を観ることが多いのも挙げられる。これも一見すると別々の位置に立っているようにみえるが、拳を開いた掌のように、1つの大陸から伸びていく指のような感覚を抱くことがある。その指たちは伸びれば伸びる程、くっつくことはないのだけれども、「後ろを見てご覧、僕たちはその大陸を渡って共通意識を持てるんだよ」と、強さを与えてくれる。だからかもしれないが、彼らの作品を観ていると血が沸き立ち、骨が軋み、肉が問いかけてくる、「私を、俺を創れ。お前は何をしている?」と。

僕はこの世代が好きだ。