えぐっちとぐっちょん

2008.12.24日々のこと

えぐっち です。高校時代、というか自分の人生上ある友だけが使っていた呼び名がある。ぐっちょん。最初、よくわからなかったので無視していたら、「ぐっちょん、インジャパン」と余計にわからない呼び名になってしまっていた。酔ったときに行うプロレスではいつも負かされ、友の車での卒業旅行でS県に入った途端に「これボードの上に出しといて」と、どこかのチーム名が入ったプレート?を手渡され、「勘弁してくれ」と思っていたらそれを知ってか知らずか、一人テンションをべらぼうに上げている友がそこにいた。

書こうと思っていたことからだいぶ外れてしまった。

名前である。僕は名前というのは本来、記号だと考えている。元々は「あれ」や「これ」では便宜上困る対象物につけられる、円滑なコミュニケーションツールのためのものであり、それが深まると、「=(イコール)」としての記号から、意味が先行しだす。例えば「糞」という言葉がある。本来、排泄物を指しているはずだが、その意味、排泄という昔から浄化の対象として存在していた名前が、罵るための言葉「クソが」というような使い方もされ、そこでは、排泄物という形は見て取らないだろう。
M・デュシャンの『泉』という作品の一側面にも、そのような働きかけがなされていたのだけれども、単なる意味の掛け合い、つまり、藝術を遊びにしてしまった。しかも、キリスト教圏ではなく、宗教の自由を謳っている日本では、その掛け合いすら知らぬまま取り入れてしまったために、単なる遊びの要素だけが強まってしまった。

その代表的な事柄が「写真とは・・・」と言ってしまう方々である。意味の部分を彼らは高らかに述べているのだが、そんな意味は誰にも伝わっておらず、それにも関わらず、一人一訳かのような跋扈を煽っている。何故今になっても絵画が藝術として存在しているかの理由の1つに、彼らは、絵画全体に責任を押し付けるのではなく、印象派、表現主義などのように活動している本人たちに責任がかかるようにしていたことが挙げられる。勿論、彼らの手記などには「絵画とは・・・」や「藝術とは・・・」という言葉が出てくるが、自分たちの立場を名乗ることで向けられる批判を絵画にすり替えるようなことはしていなかったと思われる。

しかし、「写真とは・・・」と述べるだけの方々は、自分たちは好きに遊んでいるだけにも関わらず、価値を下げてしまう責任というのは写真それ自体に投げてしまうのである。この価値の低下を食い止めるためには、一度、全てを土俵にあげて考え、闘うことが必要なのではと考えられる。その混沌の先にあるのが、たとえ闇であろうとも、光であろうとも、混沌と秩序が統合され洗練された、記号も意味も超えた、美しい作品と出会えるのではないだろうか。

※『最期の自然』が漸く形となってきたので、ちょくちょく見て頂きたいと思っています・・・という主旨のことを書こうと思っていたら、年末で誰もいないのでは?という状況でした。

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