Archive for 2012.12

作品

2012.12.31

めずらしく季節的なことを。
 
「よいお年を」、「大晦日」など一年を締めくくる言葉と会っては「あ、一年終わりだ」と気付く。しかし、すぐに忘れてしまうので、そのような言葉と出会う度に、「あ、一年終わりだ」と気付く、ということを繰り返してしまう。そして、年々この傾向が強くなっている。
 
家を出たのが、大学一年のころ。その時には既に写真と出会っていて、正月だろうがなんだろうが、部室に泊まり込んでは現像やプリントをしていた。実家に帰るにしても日帰りで、墓参りにいくのも年に数回、そんな風にして年齢が重なっていった。
 
この10年で写真家として作品をつくって売ったり、依頼してもらって作ったりということが始まり、家族との関係性が変わったり、姪っ子が生まれてくれたり、仲間が増えたり減ったりと様々なことが目まぐるしく変わっていった。何よりも、作品のレベルが大きく変わった。
 
しかし、それもこれも、いつも作品をつくることを優先し、つくり続けてきたからであり、技術的にも精神的にも、高い次元に入ったと感じた瞬間の楽しさのまま、進んできた結果だ。
 
今日も夜が終わるときの光は美しく、いつものように作品をつくっては興奮したり、疲労困憊になったりするんだろうね。
 
今年もありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。

責任?

2012.12.30

「責任」という言葉を使う理由が、腑に落ちないことが多々ある。大抵の場合は、負い目を背負いたくないときに相手になすり付ける場合だったり、仕事や人間関係でプレッシャーが掛かるときなど、重荷を背負って「大変だな〜」と思う際に、「責任を感じる」や「責任がある」と話されている。
 
僕は上記のような場合に、責任なんて言葉を使っていないような気がしている。負い目を背負いたくないときの責任のなすり付け合いでは、前提として、失敗(負い目)が生まれた原因が必ず存在し、そこを考慮に入れられなかったのは当事者全員の能力である。僕は、能力が欠けていたのなら補うか、成長すれば良いだけだと考えている。
 
仕事や人間関係の場合では、プレッシャー(重荷)を感じた際の「大変だな〜」が、理から外れていたり、合理的ではなかったり、理念との辻褄が合っていなかったりすれば「馬鹿だな〜」と思って、話して、引き受けないか改善させて進めればよく、理や辻褄が合っていたら「大変だな〜」は、ヒリヒリした緊張感の中、楽しんでいる。
 
それで気付いたことがあったのだが、プレッシャーを感じた際に「責任」という言葉を使っている人達の表情は暗い。つまり、この状況を楽しんでいないように見えるのだ。そこで、その人達が感じる責任の在処を聞いていると、「失敗したときに(自分が)背負うもの(負い目)」を考えた結果、暗い表情になっているようだ。
 
なるほど。暗い表情になっている人達というのは、失敗した時の原因は全て一人(一つ)にあると思っているようだ。ここで、上述の話にループするのだけれども、暗い表情になっている方々って、失敗した際の負い目を、誰か(何か)になすり付けていないか?
 
僕も何かを進めるときに、失敗したときのことを考えるけれど、どんな方向から考えても「それだけで死ぬ訳じゃないしな〜」という結論に至るし、プレッシャーからの楽しさが勝っていればやりたくなり、やってしまう。楽しさを感じないときというのは、先述の通り、理から外れていたり、理念との辻褄が合っていないときなので、やらないということになる(話しても伝わらない相手といる徒労を、避けられるようになったのは経験なんだろうね)。
 
そして、失敗したときのことを考えて、暗い表情になっている人達の失敗の先は「生き死に」に関わることではないことが多い。つまり、「自分が死ぬこと」を考えていないのだ。ここで、僕は「な〜んだ、実際問題を考えていないだけじゃん」と理解するのだが、ほらね、「責任」という言葉で片付けることが出来ないでしょ?

会話の癖

2012.12.29

業務以外の会話で、僕はよく「情報の話は必要ない」と言う。いわゆる「●●(場所の名前)のあれ(商品名)はどうだ」、「▲▲(人の名前)のこれがあぁだ」みたいな話であり、インターネットで調べられる知識としての名前(情報)の話はなるべく避けるようにしている。
 
ネットで調べられることなのだから、誰かと会っているときにわざわざ話すことでもないという点もあるけれども、どんな物や人やサービスでも「質が高い」のは精神論に由来しているように思えるから、という理由の方が、情報の話を避ける理由として強いような気がしている。
 
喩え話や引用として情報の話を使うときはあるけれども、そんなときでも相手に伝えたい内容は、情報のことではなく、精神的なことや抽象的なことであり、「本質」と呼ばれるようなことだ。それが「本質」なのか、的外れなのかはわからないが、「質が高い」と呼ばれるような情報達に、共通していると思われる内容であることは確かだろう。
 
つまり、名前や種類を取っ払っても通用するような話というのは、「本質」の度合いが「高い」話ということであり、情報の話で終らせない会話というのが、会話の質を高めることだと考えている。
 
いつでも質を高めようとしていたら、疲れ果ててしまうかもしれないけれど、たまには会話の質を高めようと努めてもバチは当たらないでしょう。

恒例行事

2012.12.28

毎年恒例の「暴念会-エグチマサル邸の大掃除」をしていた。恒例となっての楽しみの一つが、人の入れ替わりである。去年まで参加していた人が来れなかったり、今年仲良くなった人が参加して別の誰かと仲良くなったりと、こういうのは見ていると面白い。
 
そして毎年、僕の手料理を提供するのだが、今年は全て手作りのものを出した。「今日、死ぬかもしれない絶対的平等性」の上に生きていることを例年以上に意識した年だったせいか、食事に対して最後の晩餐という意識で望むことが多くなっている。
 
特に、誰かと食事をするときは乾杯が大切だ。知らない人だろうと、誰かが加わればその都度、乾杯をしたい。乾杯を繰り返していくほどに、呑む酒や食べる食事は美味くなり、人は増え、笑顔が増える。悲しい顔をしている人がいるかもしれないが、それでも、彼や彼女が僕らと一緒にいることを選んだということが食べるものが美味くなるじゃあないか。
 
ではでは、最後に乾杯!!!

適切な物をつくる

2012.12.27

・PC関係で特定のツールやソフトが普及すると、必ずと言っていいほどウィルスやハッキングツールを生む人が出てくる。
 
・最近、巷を賑わせている「気付かせずに、それとなしに売り込む方法」も人が考えだし、人を媒介として伝わる。
 
・「作らない」という選択肢がメジャーになりつつある。
 
一つ目はその行いをゲームとして楽しんでツールを作る人もいるが、総じて言えるのは、「適切なものが作られていない」ということではないだろうか。
 
街を歩いていると、「これって本当は必要ないよな」といった物や言葉で溢れている。色違いで製造しなくてはならない理由は、購買の選択肢を増やしたり、コレクション欲求を満たしたりといったもので、その商品の本質とは少々離れている。コピーにおいても「こだわりの●●」って、こだわらないで作られている物が溢れているか、こだわって作られている物しかないんじゃないの?ってはずで、実際は何も伝えていないコピーだ。
 
僕らが物に対して「良い」と感じるときって、それが必要な場面や場所で上手く機能しているとき——つまり、物が適切に機能しているときだ。デザインが優れていると言っても、屋根のない場所にMacを設置しないでしょ。
 
そんな訳で、適切なものを作る力というのが、これからの時代は必要になってくるんじゃないだろうか。それが、こんなくだらないイタチごっこを止めることになるんじゃないだろうか。