Archive for 2010.7

陥る穴

2010.7.24

 「作品に引っ張られる部分」や「作品に気付かされる部分」というのが度々ある。カラーになってもいつの間にか「粒状性」が大切になってきており、「フィルムじゃなくてよかったな」や「コンパクトでよかったな」と思うことが少なからず湧くときがある。高級デジタル一眼を使うこともあったり、アナログであろうとデジタルであろうと様々な環境で仕事をさせてもらってきた。ただその中でいつも考えていたのが、「1.フィルム派のフィルムでしか出せない質感というのは、己のデジタルの技術が足りないことへの言い訳である」、「2.デジタルで妥当とされていること(サイズと解像度の関係性や、作業の進め方など)は、本当は重要ではない」ということだった。前者は慣れを手放すことや未知への一歩に対する恐れを言い訳にしているだけであり、後者は彼ら(一応、プロと呼ばれる人達)の出力物を見ても色や形への狙い方が下手だったり、近くでみるとジャギが目立っていたりとシラケるものだったからだ。そして、大切なのが「近くで見たときにジャギが目立つとシラケる」という、私の性質だ。

 それと、写真をやっている人間が陥りやすい「機材愛好主義」というのも反吐が出てしまうので、そうならないようにしていた。ただ、その主義を避けるだけだったら彼らとやっていることは変わりがないので、様々な環境で吸収し、「何が一番重要なのか?」ということを見誤らないようにしていた。「弘法筆を択ばず」という慣用句は本当だと思う。だからかもしれないが、自分の手元にある機材は最低限である(スキャナーとか8年ぐらい前の複合機)。その環境下で「何が一番重要なのか?」を考えながら、大判出力にも耐えられる作品を創作していく内に、いつの間にか技術はついていった。

 しかし、「弘法筆を択ばず」から陥りやすいのが、道具への無頓着である。ぞんざいな扱い、恣意性における制作者の暴力とも言える振る舞いをしやすくなってしまう。加えて、技術や知識が身に付けば身に付く程、有能感から油断が生じ、挙句、「弘法にも筆の誤り」ということになってしまう。

 陥る穴はたくさんあるが、いつも変わらず「何が一番重要なのか?」ということを考えて生きてきたように思うが、最近は肩に力が入らずに考えているように思われる。おそらく「愛している」あたりからだろう。そこから「希望の光」、「The Outerspace」と進んでいき、静かに、深くという感覚が広がっている。

整理整頓

2010.7.20

 cssをかじり始めていると、webデザイナーとコーダーがわかれている理由もわかってくるし、デザインを組むことから始まるのだから、「何をどうしたいのか?」という当たり前のことがなければ、建設的に進めることは出来ないということがわかった。そうわかってくると「紙媒体と一緒じゃん」とわかるが、次いで「創作と一緒じゃん」と理解される。昔の美術家は1人で全てのことをやっていたのだから当たり前といえば当たり前の話である。そして、「何でもそうじゃん」ともわかり、藝術が全ての人に開かれているのだから、それも当たり前の話である。

 と、いうことは、いつも言っているように洞察力が大切だし、他者からの依頼で始まるのなら、打ち合わせが大切なのだ。しかし、美術であれば「自分はわかっている(つもり)」程度で達観し、デザインであれば「何かを創造している(つもり)」で優越感を抱く穴に陥りやすい。その危険性は常に孕んでおり、少しの油断で己が気付かぬうちに抜け出せなくなっている。これらを生業としていて、これほど恐ろしいというか、悲惨な状態はないのではないだろうか。

静かに、深く・・・

2010.7.17

 たった1枚、しかもその展示環境は煩雑になるであろうと予測される中、打算的な考えも浮かぶが、全力を尽くし、観客のことも考えてしまうのはもう性分というしかないだろう。ある意味において、他者や環境なんてどうでもいいと思い、いつも自分を超えるために全力を尽くせるかどうかの方が、重要であると考えている。そのやり方や性質は、時には激しくもあったが、今は静かに深く、という感覚の方が強い。

 しかし、それは同時に、身体や魂といったものが消えていく感覚もしているのだが、悲壮感というのは全くなく、落ち着いて「真ん中」の状態のようだ。作品に動かされる感覚、作品と闘う感覚など様々な感覚と共に生きてきたが、この感覚は静かだ。ただ、「良い」ということはわかっているのだが。柔らかく、静かで・・・。

 それと共に、「野心や欲がある時の方が幸せだったのだろうか?」とも疑問が生まれたのだが、「売れること=幸せ」と語る若手や軽い中堅、嘆く年配の話を聞いていても、自分とは違う話をしているのがわかってしまう。と、いうことは、「自分は現代の作家として生きていないということなのだろうか?」と疑問が生まれるが、たとえそうだとしても、やることは同じ(作品を創ること)なのだから、重要なことはわかっているのだ。作品を創る、重要なことは作品が教えてくれる。全ての環境は、自分次第なのだ。たとえ、それが作品であり、自分が消えようとも、喜怒哀楽がなくとも、穏やかだ。


 ※safari4.1になってから段落毎に1行分のスペースが出なくなりました。わざわざタグで区切っても出ないというのはどういうことやねん、と思いながら、「まぁ、しゃあないか」とも思っています。

drunk afternoon

2010.7.10

 昨日、友人達と呑んでいて、「ファンはいらない、仲間が欲しい」という類いの言葉を聞いた(言ったのか?)。それは、あるプロジェクトが本格始動した合図でもあった。そのプロジェクトは、いわば「遊び」であるのだが、「本気の遊び」であり、そこから多くの人達が関わり、境界線なんて全くないプロジェクトとして立ち上がった。この「遊び」は大学時代からの延長のようなものであるが、それぞれが別々のプロフェッショナルとして成長し、その後、出会うことで始まった「本気の遊び」である。やる気のある人間であれば、国境も文化も性別も年齢も関係なく、偏見に満ちあふれた境界線なんてものは軽々と飛び越せてしまえることを証明するためのプロジェクトでもある。知らない人間と出会うことは恐いけれど、ハートがあれば、全力で楽しめることを見せつけてやるプロジェクトでもある。羨ましかったら手を差し出してみろ、しっかりと引き上げてやるが、その後は全力で楽しんでくれ。このプロジェクト名は「drunk afternoon」。この年齢になったからこそ出来る「遊び」を本気でやれること、もしくは、この年齢になっても「遊び」を本気で出来ることに、嬉しさを覚えた。

作る立場の違い

2010.7.4

 「カールじいさんの空飛ぶ家」(2D)を観た。無駄な箇所がなく、何度か泣いてしまう場面も。ただ、悪役の最後のシーンが子ども映画として疑問に思ったのだが、「特典映像」でそのことを制作者たちが語っていた。その「特典映像」を観ていて思ったのが、「制作者としての潔さ」に共感を、「物語の登場人物の人生を左右させてしまえる立場」に気味の悪さを感じたのだった。前者は試行錯誤の末にそれを選択するという制作者として当たり前に必要なことだと言えるし、後者は作る側にいる人達には当たり前に存在している要素であると言える。料理でも建築物でも美術作品でも、制作物は作り手を通して作られることになる。つまり、作り手のさじ加減で、どうにでもなってしまえる訳であるが、作り手の意志を超えて制作物が出てきてしまう場合があるのも事実だろう。作品に動かされて作ってしまう、と言うのが適切なのだろうか、そして、そんな作品が良いと思えるからこそ、日々をその作品に応えることが出来るように神経を使い、身体を大切にする。どれだけ、正直に応えられるのか、従事するのではなく、いかに応えるのか。このことを、私は以前から「即興」という単語を用いて説明してきたのだった。作品と作者、この2つ(2人)が無理なく出会い、骨身を削ることになるけれど楽しい(楽しいけれど苦行のような)、そんな瞬間に「良い作品」が世の中に誕生するように感じている。

 以上は作家としての考え方だが、そうではない人達に藝術の素晴らしさを伝える時は少し異なる。

 例えば、石の使い方。石を人に投げて暴力を振るい金銭を奪う道具として使う人達もいるだろう、しかし、石を使い地面に絵を描けば、たちまち美術の道具となる。1人でも2人でも複数人でもいい、その場で「絵しりとり」ができるし、「けんけんぱ」(遊び名がわからない)だって出来る、ただ単純に絵を描くことに集中したっていい、しかし、そこにあるのは笑顔だ。楽しいっていう気持ちなのだ。何かを傷つける道具でもある石が、笑顔を誕生させることが出来る道具に早変わりするのだ。私は専門外の人達に伝えるときには、この可能性を見出している。けれども、本業にしている人間にはこれだけでは「とるに足らないもの」が誕生してしまうのが、不思議な話だと考えている。

 おそらく、成長するにしたがって、「自己陶酔」と「逃避」に逃げ込んでしまうのだろうと考えられる。しかし、「そうなってしまう人達」と「そうならない人達」との違いは何なのだろうかと、最近、疑問に思う。