Archive for 2009.10

善き1枚

2009.10.29

 朝から創作をしていて、昨日作られた1枚にランドスケープ(風景)があるのだけれども、スライドショーにして流れを確認していると、「その景色の中で最期の時を向かえられたらいいのにな」と思った。

 写真の中に入るというか、全方位型の映像というか、でもそれは別の作品であったり、観る者の能力によって頭の中で創ることができる景色だ。自分の魂が汚れないでいるためにも自分のために生きていると言えるだろう。しかし、自分一人で生きていたり、自分を取り巻く環境さえもそうであるのならば、僕は作品を創る必要性がない。やはり、作品を創るということには他者への愛がなければできないことだ。「繋がろうとする必要はない、繋がっているのだから」、「恐れる必要はない、同じなのだから」、全てのものを愛して観察すれば創造性は膨らんでいく。それを具現化していくのは他者への愛でしかない。裏を返せば、憎しみでもそれらができるということだ。しかし思うのだ、「誰も憎む必要がない」と。

循環

2009.10.27

 いつもお世話になっている友人の搬入を手伝い、そのまま展示風景の撮影と店舗の撮影をさせていただきました。その後、ビールとドイツパン(プレーン)を頼んだらパンをおつまみにしてくれました。

 再びその後、専門学校時代の先生の展示に行ったら美味しいワインをご馳走してもらい、オーナーの方をご紹介頂いて、ポートフォリオを置かせてもらう事になりました。

 いつも思う事だが、「自分は自分、他人は他人」ということを結論づけるのは1つの考えとして、基本的には今まで培ってきた些細なことが集積となって作品が創れているし、生かされていると考えている。だからこそ、依頼された時や話す機会を得させて頂いた時は、全身全霊を持って一生懸命にその仕事を全うしようと努力できる。その結果が、再び誰かが誰かを紹介してくれたり、機会を作ってくれたりして、僕の活動や生活は支えられているという循環が生じている。「自分は自分、他人は他人」ということを貫徹したいのであれば、人が来ないような僻地に住居を構えて、自給自足の生活を送るしかないだろう。結局、「純度を高めようとしている人間」か「中途半端なことをしている人間」かのどちらかしかいないのではないだろうか?

※ 大津有加里
  企画展「WONDERサイダーDAUGHTER」
  +cafe Flug
  http://www.cafe-flug.jp

※ 森田衣起
  企画展「森田衣起展」
  Art Center Ongoing
  http://www.ongoing.jp
(活動紹介用のファイルを置かせて頂いています。なるべく早めに簡易バージョンに変更する予定なので、お近くにお越しの際は、是非、ご覧下さい)

何のために○○○?

2009.10.23

 量もそうだが、カッコイイだけでいいのならアトリエに入るかパソコンの前に座れば簡単に作ることが出来る。けれども、どう見ても世の中にはカッコ良くないシロものが溢れているから不思議に思うし、カッコイイだけだと作品になれないから不思議だ。

 しかし、「わからない感じが良いんだよ」なんてことは言ってて馬鹿らしいし、普遍的なんてものが必要ならば誰が見ても「ある感覚」を抱く必要が出てくる。そんでもって、やっぱり自分の生業としていることは、夢と希望を与える職業であって欲しいと思うのは当然な訳で、ダサイことやシラケたことを言ったり、やったりなんてことは出来ない。だから、誰が見ても「ある感覚」を強く抱くように創ってる。

 つまらない欲望が全く出てこない訳ではないし、「あぁ、もう駄目だ!」って思うこともあるが、そんな時はいつも「俺は何のために生きているんだ?」ということを思い返してみることにしている。そして、そんな時は上記のようなことに落ち着いてるから、やっぱり僕が創る時というのは「伝えるもの」があるのだろう。

19:41

2009.10.21

 最近はバタンキューで眠りにつくような日々が続いている。

 その甲斐あってか、色々なものが繋がってきた。しかしその瞬間、もっと晴れやかな気分になるのかと思っていたら、淡々と次に進んでいる自分がいた。欲がなくなってきて、真ん中にいれているような気持ちもしている。

 最低限の衣食住があれば人は考える力を得る事ができるが、そのどれかが著しく欠けると人は考える力を失っていく。一方、贅が加わっても人は考える力を失っていく。それが分かっているから、昔から富ある家柄は教育に力を入れて来たわけだが、やはり現代では贅のため、生活のために生きるのが当たり前となっている。それが現代における、人が人として生きることであるのならば、やはり、藝術や哲学、教育を必要としないのも納得がいく。けれども、贅のためや生活のために生きている者ほど、日々を不満気に過ごしているように見えるのは何故だろうか? 気のせいか?

 ギリギリの生活状況だったり、明日死ぬかもしれないような状況だったりしても、考える事を怠らない人ほど満たされているように見えるのは思い違いではないだろう。

願いと循環

2009.10.16

 個人の問題や個人の好き嫌いの話を僕はしてこなかった。

 というのも、藝術や創作、作品が社会の中で必要とされるものであって欲しい、そうなって欲しいと願っていたからだ。

 そのように願っていたからかもしれないが、そのことで年々、活動の幅が広がっていくことが、再び僕に藝術や作品が社会の中で必要なものになって欲しいと切に願うようにさせ、僕に創作させるという、創造性の循環が起きている。