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2014.6.29
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旅のはじまりというのは、どこからはじまるのだろうか。昔、喧噪から離れて自然の中へ野宿をしに行っていた頃のことを思い出したり、都会の真ん中のベンチで昼寝をしたりするときに訪れる心の状態は似ている。
ただ、一点異なるのは、「危険度」だ。自然の中にいたら、相手は自然であり、何がおこるか分からない不安は常に頭の片隅にあり、アンテナを張っている状態だ。それが、都会になると、暴漢の気配を察知するかどうかになってくる。相手は人間という自然になり、より身近になる。
そして、実際に目にする星々は、山の中の星の海とはかけ離れた一番星という島を探すことになる。人間も星も全てが平等に輝いている。遠くから見たら、輝きは違うのかもしれないが、輝いているということにおいては、皆、平等の力を持っているのだ。
瞑想で木陰を見た。自分たちは宇宙の星々のたった一つであって、総体ではない。そういうことを見ながら、考えていると、自分が何ものかである必要のなさを感じるのだ。
しかし、常にそうであると、離人が起きやすくなるのも仕方が無いことだ。何ものかであることを求められる社会の中にいては、何ものかである必要のなさで過ごすには、いささか不安定なことになる。
それとも、その気持ちのまま、安定を保つことができるのだろうか。いや、もしかしたら、大地のような気持ちになれれば、大地と一体のような心持ちになれば、安定はしていられるのかもしれない。
つまり、地球と一体ということか、、、ん? いつもと同じ結果じゃないか。やはり、人間は地球と一体だったと感じることが、安定に繋がるのかもしれない。そして、地球は広大な宇宙の中にいる。広大さは無限だけれども、地球の位置は、我々の位置は一定である。そう、はじめから一定なのだ。何を焦る必要があったのだろうか。
いや、焦ってなどいなかったな。
伝えることの出来る方法論を、手に入れる必要があるのだろう。大事なことは、自分の修行次第ということが多い。どの文化、どの宗教においてもそうである。師、その人自身も修行中の身であり、一生涯修行ということになる。いやはや、実際そうなのだが、ある一定レベルの悟りの状態は、もっと簡単に伝えることは出来ないだろうか、と思うのだ。あまりにも辛く、苦しい状態を過ぎて漸く辿り着くのが「始まり」では、その苦しみを他人に与えろというのか。それは、酷だろうよ、と思うのだ。
もうちょっとラクに伝えられる方法論はないのだろうか。
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夢の中で、涙が止まらなかった。薄陽の入る部屋の中で、押入の整理をしていると、古ぼけた黒い箱があった。鉄で出来ている箱なのか、木なのか、紙なのかは覚えていないが、開けてみると、隅の方に粒状化した鉄錆が積もっており、ところどころから、小物が見えた。
小物はとても懐かしい気分にさせ、ひとつひとつ見ていると、箱の中に絵はがきがあるのに気が付いた。
親父から僕に宛てての手紙だった。
そこに書かれている内容は覚えていないが、「航海」というワードがあったような気がしている。手紙を読み始めると、僕は大粒の涙が止まらなくなり、頭の中には海の上で航海しているイメージが出た後、家族全員が次々と思い出された。
今思い返してみると、「自由であれ」ということと「後悔をまだ残している」ということだが、フラットな気分でいられるのは、吹っ切れていることでもあるのだな。