偏見の利用。

2014.8.17日々のこと

ギルバート・オサリバンの「ALONE AGAIN」がj-waveから流れていた。ノスタルジー特集として流しているらしく、「なるほど」と思った。
 
しかし、不思議なことに、僕らは幼い頃にこの曲をリアルタイムで聴いていたわけではないし、好んで聴いていたわけでもない。ドラマや映画などのノスタルジーを感じさせるような場面で、挿入歌として聴いていたと思うのだ。
 
そんな曲が、世代を超えて「ノスタルジー」という意味合いを共有して聴くことが出来る。すると、「今、格好いい」とは異なる意味合いを持って聴くようになっており、これは偏見の総体でもある。そして、この偏見はドラマや映画などの制作者によって、刷り込まれた偏見だということだ。
 
これが物語っているのは、全ての人工的な感覚は作られ、刷り込まれているものが多いということ。
 
僕らが街中で目にする広告や雑誌、映画、展覧会の作品など全て、人間が作りだした意味の約束事の上で成立している。どんなに新しいと感じたものだったり、アウトサイダーなものだったりしたとしても、ある約束事を誇張したり、約束事のタブーを犯しているだけだったりする。
 
これ、何が言いたいかというと、自分が作ったものが完全なオリジナルと言い張るよりも、今は亡き、多くの先輩達が作りだしてくれた意味合いを、どう使って、どう変えていき、新しい意味合いにしていくか——そう考えた方が楽しいんじゃないのってことです。 

コメントを書く