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2009.11.21日々のこと

 大倉集古館へ「根来」展を観に行っていた。夏過ぎに招待券を頂いて、凄く興味を注がれていた展覧会だ。その期待を裏切られる事はなく、心の奥底を澄み切らせてくれるものだった。そして、声を聞く。「作れ」と。「ただ正直に作れ」という、僕自身の声が聞こえていた。2階のテラスに出ると日の沈みかけた空気が僕に緊張感をくれ、その感覚だけで作品を創れると思っていた。

 次の日、他の作品との兼ね合いで損得勘定が頭をよぎり、頭から煙が出そうな感じだったので、「タイミングが合わなければ止めよう」ということを思って大判出力をしにいったら、タイミングが合った。スパークしたという感じだ。
 やはり、良い。良い1枚だ。限られた人達しか観る事が叶わないのが惜しいが、良い1枚だ。何だか昔の藝術家みたいな感じになってきているが、現行の写真家や美術家のやり方が合わないので、この方が自分には合っているのだろう。

 しかし、その場所で出会った青年から「いつも見てます」と言われ、事務の人とバタバタしていたらいつの間にか彼はいなくなっていた。「緊張感が大切だ」と思った。

 それとは関係ないが、「エグチさんにとって写真って何ですか?」、「エグチさんにとって美しいって何ですか?」、「エグチさんにとって良い作品って何ですか?」、「エグチさんにとって藝術って何ですか?」と質問されるときがあるが、「○○さんにとってー」となっている時点で藝術ではないと考えられる。普遍的なものに興味があって作品を創るから藝術をやっていると言えるのであり、個人的な事柄から創作が始まったとしても、それを普遍的な事柄へと結びつけることが出来るから、それが藝術となるのではないだろうか。そして、藝術の領域で写真を媒体にしているから写真家を名乗っているのである。これは、野球選手もサッカー選手もスポーツ選手であるように、写真家と藝術家は本来分けて考えるものではない。仮に分けて考えるのであれば、写真を媒体にして藝術領域にいる人のことを何と呼ぶのだろうか? 分けて考える人達は、現代美術家と呼ぶのだろうが、そうすると別段、写真を扱わなくても良いことになると考えるのが妥当である。つまり、名称としての純度を高めるのであれば、写真家は藝術領域で写真を扱う人とするのが妥当であり、別個に考えるものではない。

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