Archive for 2019.12

『パディントン2』はおもしろい。

2019.12.26

『パディントン2』を観ました。
ストーリーはお約束で、可愛い小熊が奮闘する映画ですが、最後は泣いちゃいます。
劇中、パディントンを住まわせている家のお父さんが「彼は誰にでも親切で、どんな人にも良いところを見つける」と言ってたのが印象的でした。
そして、誰もがパディントンの無実を晴らそうと、協力します。
 
「彼が良い人(熊)だから、周囲の人が協力する」という因果関係はないんですよね。
けれど、悪い奴に協力する因果関係はさらにないわけです。
大事なのは、パディントンが、見返りを求めずに、いつも親切をしていたということだけです。
それがドジっちゃうことになったとしても、親切心を働くというおばさんの教えが変わることはありません。
そして、ストーリーの中心も、そんなおばさんに親切したいという想いから始まりました。
 
とても好きな映画だなぁ。
ちょっとのかけ違いで、心細くなってしまうこともあるけれど、こういう人(熊)に報われて欲しいって思うんです。
親切を働く人が損をするなんて間違っています。
世の中は、そういう風に動いてしまうこともあるけれど、やっぱりね、親切を与える人(熊)は、幸せになって欲しいんです。
映画のように、改心することはないかもしれないけれど、それでも、影響はあるんじゃないかと信じていたいです。
 
今年、『GIVE & TAKE』という本を読んで、とても大きな気づきがあったけれど、パディントンも与える人(熊)なんですよね。
与えるって、人を動かすんだよな。

利他的のすゝめ。

2019.12.25

「リモートワークをしたい」と言うときに、自分のQOLを高めることを理由に挙げる人がいるが、これは残念ながら間違っている。
その人の中では筋は通っているかもしれないが、仕事というのは「長けている人」と「足りていない人」がいて成り立つものだ。
そして、この両者には絶対に埋まることのない知識や技術の隔たりがあり、それ故に、「長けている人」には職業倫理が求められる。
 
有名なヒポクラテスの誓いで説明するなら、職業倫理とは「私は患者にとって不利益になることは絶対にせず、患者にとって利益になることしかしない」という仕事における倫理観だ。
患者というのは知識や技術が「足りていない人」であり、これは医療だけでなく、すべての仕事は「足りていない人」と「長けている人」によって成り立っている。
つまり、リモートワークをする理由は、「『足りていない人』にとって利益になるから」でなければいけない。
QOLが高まることで仕事のパフォーマンスが上がるが、リモートワークでQOLを高めて、仕事のパフォーマンスを高めるというロジックならば、それは間接的なパフォーマンスの高め方であり、リモートワーク云々の話ではなくなる。
すべてはパフォーマンスに直結しなければ意味がないのだ。
 
一方で、客先常駐を求めることも、間違っている。
世の中にこれほどの会社がある中で、常駐してもらわなければ会社のパフォーマンスが下がるのなら、その会社のコミュニケーション能力の低さを表しているに過ぎない。
つまり、その会社に必要なのは、新しい人に常駐して働いてもらうことではなく、既にいる人達のコミュニケーション能力を高めることだ。
ぼく自身、すべてのクライアントに常駐せず、メール、電話、ビデオチャット、そして会いに行くことを、TPOに合わせて使い分けることで、有意義なやりとりになるように努めている。
これには高度なコミュニケーション能力が必要なのかもしれないが、製品やサービスを提供する側のコミュニケーション能力が低ければ、その製品やサービスの魅力など伝わるはずもなく、ユーザーの購買につながるはずもないのだ。
また、いま世の中で頻繁に求められているUX(顧客体験)とは、社外にいるユーザーの視点に立たなければならないのだから、社内にいながらその視点に立つなど、自分で自分の背中を見るぐらい不可能な話なのだ。
これを裏づけるかのように、客先常駐させている企業やデザイン事務所で、素晴らしい業績を上げているところを見たことがない。
 
いまの世の中、フリーランスもクライアントも、自分のことしか考えない勝手な人たちが多いのが、日本の病でもあるのだろう。
利他的である人が、最終的には得をする社会でなければ、この病は進行してしまうんだ。
それほどまでに、人間というのは弱い生き物なんだ。

言ったもん勝ちの世の中なら、習いに行った方がいい。

2019.12.24

何でも言ったもん勝ちの世の中になってしまっていると思った。
言われたら対応しなきゃいけないのは、言ったもん勝ちの世の中だ。
対応は反論かもしれないし、謝罪かもしれないし、単なる受け答えかもしれないが、受け流すことも選択肢に入っていないと、言ったもん勝ちになる。
 
言ったもん勝ちの世の中を表すのは、受け流し方が下手な人が多いのだ。
自分から話を振っておいて、その対応をしたのにも関わらず、一言も返事をよこさない人が見受けられる。
  
返事をしない、忘れていました、は受け流しではなく、怠慢になる。
一言返事を送っておくだけで終わらせられることをしないと、相手に不快感を与えるのは、ビジネスマナーで習うことだろう。
一方で、返事の仕方については、TPOによって変わってくる。
たとえば、近しい間柄であればスタンプで「ok」と送れるが、それほど親しくもない相手なら文章で返事をした方が無難だ。
方法は時代によって変化するが、返事の有無は時代によって変化しないということだ。
この違いを認知できないでいると、対応下手な人になるし、対応下手な人には不快感を抱きやすくなるものだ。
 
だから、ベースとなるビジネスマナーや接遇というものを、一度は学んだ方がいいのだろう。
「見て覚える」のが苦手な人が増えたのなら、自分から学びに行かなければならない。
法人として人を雇っているのなら、従業員が会社の顔となるのだから、会社が研修費を出して学ばせた方がいいだろう。
粋や野暮、格好いいや格好悪い、などをぼくらが大事にしているのは、上の世代がそういう姿を見せてくれていたからだ。
けれど、数の原理には及ばないもので、「言ったもん勝ち」の世の中では「見せられる大人」が減り、「見て覚える若者」がいなくなり、気遣いさえも習いに行かなければならなくなったということだ。

何でもない絵の大切さ。

2019.12.23

なぜ、病院に何でもない絵が必ず飾ってあるのか?
それは、何でもない絵だからだ。
真っ白な壁を眺めていると、見えないものが見えている人になってしまう。
何でもない絵は、どんな状態の人においても、視線を置きやすい。
だから、弱っている人が来る場所には、視線の置き場となるものがあると助かるのだ。
裸婦像でもダメだし、抽象画でもダメ。
肖像画もダメだし、達筆な書でもダメ。
子供の絵でもダメ。
何でもないから、いいんだ。
そういう絵が描ける人を、世の中はもっと大切にした方がいい。

これは絵だけではなく、たくさんのことに言える。
だが、下手な人が言い訳として使ってしまうから、言えなくなってしまうのだ。
だから、皆、自分がどれだけ凄いか、どれだけ立派なことをしているかの貢献度自慢になる。
実際は大したこともないのに、だ。

もっと、世の中は、何でもない絵を描ける人を、大事にした方がいい。
ちなみに、ぼくはそういう絵が下手だ。
だから、ぼくも大したことがない絵描きってこと。

大人のレゴナイト。

2019.12.22

「大人のレゴナイト」に行ってきました。
知らない人のために少しだけ説明すると、色とりどりのブロックを組み合わせて遊ぶ「レゴ」のテーマパークがお台場にあるのですが、普段は大人だけでは入場できないルールがあります。
それを、大人だけが入場できる夜を設けて、「大人のレゴナイト」としてイベント開催しているんです。
 
レゴの発祥地であるデンマークに興味があるぼくは、それを知ってすぐに予約して、行きました。
イベント当日までに、久し振りにレゴを買って、予習をしたほどです。
レゴを買って遊んでいる様子は以前書いたので省きますが、レゴナイトに行って一番学んだのは、「主催者側はやり切るってことが大事」ということです。
 
テープカットで始まる入場から、イベント時間中を通しての盛り上げ方は、目を見張るものがあります。
ディズニーの完成度とはまた違った、テンションの高さとその場のノリで盛り上げる様子は、学園祭の大人版とも言えます。
街中でこれはちょっとキツイですが、ぼくらお客さんは、レゴの会場に入ったことで「盛り上がりの共犯者」となり、この祭りのテンションに乗っかった方が楽しいんです。
そう、「大人のレゴナイト」は「お祭り」です。
クリスマスソングに合わせて踊るのは盆踊り、組み立てられたレゴを見るのは祭りの華やかさ、カフェやショップは出店(でみせ)、手足を動かして遊んだり、催し物を見たり、これはお祭りそのものです。
 
いい大人が熱中して、楽しんで、ごはんを食べて、景品に喜んで--お客さんが年齢を考えずに楽しめるのも、スタッフがやり切っているから、引き込まれるんですよね。
そして、やり切るためには、「好き」であることが大前提なんでしょう。
最後に景品を渡してくれる人が一番印象深かったですが、「レゴとこの場所が好きなんだ」ということが、すっごく伝わってきます。
「やるからには、やっちまえ」って、とても引き込まれるんだな。
本当に勉強になりました。