Archive for 2019.7

理由をでっち上げるのが新人。

2019.7.11

新人と経験者の違いをひとつ挙げると、何かしたときの「理由」があるかないかだろう。
たとえば、学生や新人のデザイナーに講評するときに、このデザインにした理由を聞いたところで、ロクな理由は返ってこない。
取り繕った言葉、それらしい言葉が並べられるだけであり、講評する側は「そんなんじゃわざわざ作る理由もないのになあ」と思いながらも、一応期待も込めて質問をしているのだ。
 
学生や新人から取り繕った理由しか出てこないのは、質問されてから理由をでっち上げているからだ。
そのため、質問を重ねていくと、ボロが出る。
もちろん、彼らとて考えていないわけではない。
しかし、想像する範囲が狭すぎるのだ。
だから、講評者から「もっと考えろ」と説教される。
経験値が足りないのだから、想像する範囲が狭いのは仕方がなく、こういった説教は理不尽になる。
講評者が伝えようとしているのは、「いいデザインになっていないのは、取り繕った態度がそもそも問題なんだ」ということだろう。
いいデザインになっていれば、理由など聞かなくてもいいものだ。
 
いま企業には正直であることが求められている。
それは世の中全体がそういう動きになっているとも言い過ぎではない。
正直が求められる世の中で、「でっち上げ」を癖にしてはやっていけないよ、という経験者のお節介もあるのだろう。

外にいるからできること。

2019.7.10

今日も『しらずしらず』から。
この仕事をしていると、クライアント企業から「うちの会社にこないか」というオファーがあったりするが、その話に乗っからない理由が、この本に書かれている。
「人は、無意識のうちに、自分の都合がいいように選んでいる」ということが一番の理由になるだろう。
デザインに関わる要素が、無意識に購買行動を高める効果についても書かれているが、これらを使いこなす専門家の意見よりも、クライアントは無意識のうちに、自社に都合がいいものを欲し、選んでいるわけだ。
それは意識的でもあるし、無意識的でもある。
そして、クライアントは人であるから、どんなに意識的にユーザー側の視点で見ていると思っていても、無意識に自社にとって都合がいい視点で見ている。
そう、クライアントはユーザー視点を手に入れるのは不可能なのだ。
そして、ユーザーにアンケートをとっても、アンケート内容はクライアントが望むような解釈になり、ユーザーは自分にとって都合がいいような回答をする。
そのユーザーの利益を占める割合が100パーセントならば、そのユーザーに従うしかないが、残念ながら、ユーザーの望みを叶えたところで、そのユーザーが消費者になるとは限らない(大抵は裏切られるので、アンケートを重視する企業はユーザーに翻弄される)。
厄介なクライアントほど、試行錯誤をしてユーザーに近づこうとするが、ほとんどが徒労であり、それが『しらずしらず』には書かれている。
読みながら思っていたのが、これが、ぼくが絶対にクライアントの中に入らない理由であり、クライアントとユーザーの中間的な存在でいつづける理由だ。
フラットな視点で、サブリミナルな効果を駆使するためには、外部にいる専門家であり続けなきゃいけないってことだ。

好きと楽天的。

2019.7.9

四十歳を前にして、寒天が好きだと気づいて良かった。
寒天や寒天のようなものが、とても好きだ。
寒天に黒蜜をかけたものを筆頭に、牛乳寒天、杏仁豆腐、水羊羹、葛切り、水饅頭などなど。
便利だとか、ヘルシーだとか、そんなことじゃなくて、ただ生理的に好きなんだ。
好きなことに理由なんてない。
すごいことに気がついてしまったから、もう一回言っちゃおう。
好きなことに理由なんてない。
 

楽天的に生きようと思った。
『しらずしらず』という本を読んでいて、人間は無意識に自分が望むような選択をすることを、改めて知った。
どれだけ情報があっても、どれだけ客観的に判断していると思っていても、自分の都合がいいように、自分が望む方を贔屓して、判断をしている。
それが人間なんだ。
そして、自己分析が優れている人ほど、自分を否定的に見て、鬱になっているとも。
物事を否定的に見ている人は、無意識に否定的なことを望んでいるだけで、無意識に幸せを望めば、楽天的に物事を見る。
「自分の事業は成功する」と無意識に思っている人はすべてがチャンスに見えるし、逆に、あれもこれも乗り越えなければいけない壁と感じる人は「自分の事業は失敗する」と無意識に思っている。
「失敗する」と思っているから、「成功させたい」と思うのだ。
「成功する」、ただそう思って行動すればいい。
クライアントから悪いことが起きたと伝えられたとき、「逆にありかもしれませんよ」と言っていたが、これを自分にもやってしまえばいいんだ。
俺は、これから楽天的に生きる。

学生のタイミング。

2019.7.8

学生へのアドバイスをひとつ挙げるのなら、「友人と何か活動をしていて、将来、それを仕事にしようと思っているのなら、今のうちに起業した方がいい」ということだろう。
起業したところで、仕事があるかどうか、仕事になるかどうかは分からない。
だが、これについては、どの仕事、どのタイミングにおいても同じことが言える。
 
同じではないのは、「成長後の姿」だ。
 
当時、一緒に活動をしていた友人たちの現在の作品を見ても、当時思い描いていた成長の姿を見ることは難しい。
それは相手も同じことなのかもしれない。
当時は、友人であり、仲間でもあった関係が、今では友人という関係に収まり、仲間として仕事をするには、物足りなさを感じるだろうと予測がついてしまうのだ。
それぞれの成長を夢見て一旦離れ離れになった間に、「依頼すること」を覚えてしまったのだ。
思い描いたものを実現するために、足りないピースがあるのなら、実現出来そうな人や企業に依頼をすればいい。
これを覚えた後では、青春時代を共に過ごしたというだけでは、自分を納得させるにはあまりにも弱すぎる口実なのだ。
 
人生は自分の思いも寄らないことが起きて、予想していた将来と異なることが起きるものだが、こればっかりは「目測を誤った」と思っている。
自分が写真家になることも、再独立することも、それを始めた当初はその道を選ぶとは思ってもいなかったが、その都度、「まあいっか」と納得していた。
だが、一緒に活動していた友人たちと、「また会おう」と離れ離れになった後に待ち受けていた姿には、「ああ、やっちまった」と思った。
成長の過程で、「ライスワーク」と「ライフワーク」のバランス、「業務」と「使命」のバランスが大きく隔たってしまい、同じ熱量や同じ言葉で会話をすることができないのだ。
そして、このバランスの隔たりを、取り返すほどではないことに「なってしまっていた」ことに、自分の至らなさと寂しさを感じるようになる。
  
だから、学生同士で活動をしていて、将来も同じことを見据えているのなら、このタイミングで一緒に起業しなきゃ、違う人を選ぶことになる、とだけ言っておく。

仲介料を取らない理由(業務と使命)。

2019.7.7

人を紹介するときに、紹介料や仲介料をもらっていないことを伝えると、この仕事をしている人からは大抵驚かれる。
先日も、「自分は何もしないのに、それ(仲介料)だけで生活している人もいる」と話していた人がいた。
正直に言うと、仲介業はあってもいいと思っている。
だが、仲介した後、何も貢献できていないのに報酬を取り続けるのなら、それは悪い仕事のやり方だ。
 
ちなみに、ぼくが紹介や仲介でお金をもらわないのは、ちゃんと理由がある。
仕事というのは、感謝の印が報酬となる。
ぼくらで言うと、デザインやアートを仕事として、クライアントの課題を解決したり、新たな発見を与えたり、育てるなどの結果、クライアントから感謝をされて報酬を得る。
アートにおける作品を買うというのは、ユーザーが感動したことの感謝の印だ。
そして、一通りの業務における関係性は終了となり、報酬以上の感謝になると、クライアントやユーザーとの関係性は継続する。
そのため、仲介の場合、感謝をされるのは紹介された者同士だ。
ここで仲介者が仲介料を取ると、紹介された同士はその後、仲介者を挟まないで関係性を築く。
どんなに仲介者がルールを設けようとも、破られるのがオチだ。
破られなくても、破られる背景となる心情を表すように、仲介料を取っている仲介者は「仲介しているだけ」と言われてしまう。
 
これを感謝の評価に変えたいのなら、仲介料を取らないことだ。
すると、「いい人を紹介してくれた」という評価になる。
紹介した人がいい働きをしなければ、紹介者も仲介者も悪い評価になるのは、仲介料を取ろうが、取らなかろうが変わらない。
しかし、仲介料を取ると、紹介した人がいい働きをしても、仲介者のことは忘れ去られているか、「それが仕事だろ?」という評価になる。
そして、関係性は紹介された者同士の方が強い。
結局、仲介料で稼ごうとすると、その場限りの関係性になるものだ。
 
それでも、業務としても、使命としても、仲介することが自分の仕事だと思っているのなら、これを仕事とすればいい。
ぼくは思わないから、紹介や仲介で報酬を得ようとしないだけだ。
ちなみに、印刷関係においても、印刷の元となる版下制作料やコミュニケーションの代行料を報酬とし、印刷費は印刷会社のものをそのまま伝えるようにしている。
これも、同じ理由だ。
 
ぼくの業務は、デザインとアート。
だから、それに関わる業務、ディレクションや実作業において報酬を得る。
そして、歴史を引き受けて、ちょっと良くして次の人たちに渡すのが、ぼくの使命。
だから、報酬を得ようが、得まいが関係なく、ぼくはこのことに関することはやっている。
度重なるお節介も使命としての仕事だし、頑固と映るようなこと、ディレクターやアーティストとは思われないことをやるのも、ぼくの使命としての仕事だと思ってやっている。
「業務としての仕事」と「使命としての仕事」。
これを考えているかどうかで、人生って決まってくるような気がしている。