Archive for 2019

色々あるよね。

2019.12.16

色々、種を撒いていますが、そのどれもが仕事になるとは考えていないんですよね。
なったらいいかなぁ、ぐらい。
むしろ、趣味のようなものでもあるから、まぁならなくてもいいかな、ぐらい。
そういうことがたくさんあります。
 

思えば、仕事というのは、10粒種を撒いて、1粒芽が出ればいい方で、ほとんどは失敗に終わる。
だから、好きなことの種を撒いた方が、心身が健やかに保てるんだよね。
好きでもないことで種を撒いていたら、そりゃあ、体は持ちませんよ。
 

古民家に連れて行ってもらうと必ずと言っていいほどあるもの。
てっかてかにツヤのある重たいテーブル。
このテーブルの歴史ってあるんだろうか。
日本のことだから、効率的に普及した気がめちゃくちゃするんだよな。
 

「〇〇のことは好きでも嫌いでもないんだけど、『〇〇好き男子(女子)』のグループにはなりたくない」
こういうこと、あります。
そういうのを、「アンチ」って言うのかもしれないが、それだけスタンダードになっているという裏返しなんですよね。
 

妻が「原美術館に行ったことがないから行ってみたい」って言うもんで、二人で行ってきました。
紅葉が綺麗で、作品が愉快で、ここが閉館したら、跡地は何になるんだろうか。
ぼくがマンションのフローリングが苦手なのは、土足で上がらないからなんだな、ということに気がついた。

レゴブロックを買った。

2019.12.15

レゴを買いました。
そう、子どもがよく遊ぶ、レゴブロックです。
ぼくも子どもの頃によく遊びましたが、デンマークについて調べている過程で、レゴ発祥の地ということも知り、レゴと知育の関係も知って、興味が湧いた次第です。
 
お店に行くと、映画や海外ドラマなどのコラボ商品がたくさんあったのですが、ぼくが買ったのは「クラシック」という、ブロックが入っているだけで、作るものはユーザー任せの商品です。
つまり、ぼくの実家にあった状態と同じってことです。
コラボシリーズが出ていることも知っていたし、「船」や「恐竜」などが出来上がることを約束された商品が売っていることも知っていましたが、ぼくにとってのレゴは、この「何が出来るのかはあなた次第」というものでした。
だから、お店についてしばらくの間は、そういう商品がもう売っていないんじゃないかと思ったぐらいなんですが、妻が見つけてくれて、一安心しました。
 
帰宅後、さっそく遊んでみたのですが、やっぱり面白いですね。
プラモデルの面白さが、「決まった完成型に向けて、作り上げていくこと」だとしたら、レゴの面白さは、「何度でも作り直せること」や「作っては壊し、また作っては壊せるのに、さらにまた作っていい」面白さです。
買い足せば壊す必要もないんだけれど、それをやったら、面白さの種類が変わっちゃうんでしょうね。
 
これは「旅の面白さ」と「移住の面白さ」の違いと似ています。
移住の面白さが、根を張っていき、自分の血肉をその土地の空気に染め上げながら、周囲も変化していく面白さだとしたら、旅は帰る場所があるから面白いんです。
旅先を訪れて、出会って、別れて、帰って、また違う所へ行って、別れて、再び行ってもいい。
寂しさも無責任さも混ざった面白さですが、旅好きのぼくは、レゴが好きでもあったんだなぁ、と何十年ぶりに触ってみて、気づいたんですよね。
人生を旅に喩える話は度々聞くけれど、旅とレゴ、これは案外近いものなんだな。
そうしたら、レゴも人生として語れるかもしれないな。

何かをしたいと欲望を持っているのは誰か。

2019.12.14

昨日は「人間は素晴らしい生き物じゃないんだから、素晴らしいものや人と関わりを持っていないと、悪い奴になっちゃうんですよね。」と書きました。
 
ぼく自身、これについては度々思っていて、どれだけ優れた技能を持っていても、たいそうな成果を上げたとしても、人間の本質はロクでもないと思っています。
こう思っていると、色んなところでブレーキをかけられるのです。
 
現代では、「人のために、地球のために、考えられることをしよう」というのが流行になっているけれど、じゃあ、こう言っている人たちが事業をすると何をするか。
周囲の関係者たちに、低賃金(または無賃)で、長時間、働かせようとするわけです。
何かをしたいのは事業者なのに、銀行や資本会社から借金をすることもできないで、自分の都合のいいように他の人々を働かせます。
働かせる人の言い分は「働いている人は、自分の好きなことをやっているのだから、楽しそうですよ」と。
しかし、これを決めるのは、実際に働いている人です。
 
こういう現場を見ると、ネルソン・マンデラさんが、長い獄中を通して「私が我が運命の支配者、私が我が魂の指揮官なのだ」と言っていたのを読んだのを思い出すんですよね。
差別という思想で、他人を牢獄に入れるけれど、その人の魂までは支配できないぞ、と。
社会貢献主義という思想で、他人をひどく働かせても、その人の魂まではあなたのものじゃないぞ、と。
 
他人を働かせる人というのは、とても欲望が強いです。
いったい誰の欲望を叶えてもらっているのか。
ただ、こういう話をしても、「winwinでしょ」や「お互いさまでしょ」と返してくるので、どうやら当の本人はこれを悪気がなく強制しているようなのです。
つまり、それがこの人の本質です。
こういう人と会うと、人間にはロクでもない欲望が備わっていると思うし、自分も人間なんだからこの性質が備わっているんだろうと、気をつけようと思うんですよね。
何かをしたいと欲望を持っているのは誰か。

センスとか、信用とか。

2019.12.13

こういうことをつぶやきました。
 

「センス」とか「粋」とか「信用できる」とか「有能」とか「いい人」とか「おもろい」とか「頭がいい」とか「質がいい」とかって、全部同じことを違う言葉で言っているだけだよな。逆もまた然り。

 
昨日は「大手の中心にいる人たちは、失礼なくだらない振る舞いによって、会社の利益を損なうことをしない」というようなことを書いたけれど、このつぶやきも同じだ。
大手の中心にいる人たちと仕事をすると、「この人センスないな」とは思わないし、「野暮だなー」とも、「この人は裏があるなー」とも、思わないんですよね。
そして、ちゃんと「質がいい商品」を作ろうとしているんですよね。
中核事業から離れれば離れるほど、この逆になっていきます。
 
今、大手の人たちを例に挙げているのは、比較がしやすいだけなので、中小企業だろうと零細企業だろうと同じです。
「信用できるなー」という人は、だいたい野暮なことはしないもんです。
そして、「センスがいい」ということを、ちゃんと察知する力を持っているんですよね。
これは、先日まで読んでいたデンマークの本で確信しましたが、そうやって育ってきたってことなんです。
センスがいいものに囲まれて育ったり、粋な大人に育ててもらったり、信頼できる人に育てたもらったり、質がいいものに囲まれて育ったりすることで、積み重ねてきたものなんです。
 
エントロピー的に言えば、人間は素晴らしい生き物じゃないんだから、素晴らしいものや人と関わりを持っていないと、悪い奴になっちゃうんですよね。
いい景色を見たり、おいしいものを食べたり、やさしい人とおしゃべりしたり、美しい作品を観たり、感動する映画を観たり、感動する本や漫画を読んだり、おもしろいゲームをしたり、笑っちゃう話を聞いたり、心地よい音楽を聴いたり、熱中する趣味に没頭したり、いろんなことがぼくらのセンスを育てるのです。
だからね、忙しいっていうのは、嫌な奴になっていくことでもあるんだよ。
余白を作るのが、大事なんだ。

紹介される人は、今までの関係とは別。

2019.12.12

歩きながら思ったことがあった。
「クライアントと友達になる。友達のために頑張るが、友達の部下のために頑張る理由はどこにもない。」
ということなんだけど、みんなこのことを忘れている。
 
元から取引関係にあった企業の担当者から、新入社員なのか中途なのか、配属変えなのか、新しい人を紹介され、その人ともやりとりが始まったとする。
しかし、その新しく加わった人との関係性は、取引先に勤めている人というだけだ。
極論を言えば、紹介される時点では、誰であっても同じであり、まったく関係のない人だ。
だから、その人がどんな立場の人であれ、今までの関わっていた人たちと同じように接する必要などなく、その人とは新しく関係性を作っていかなきゃいけない。
つまり、その人がどうしようもなく失礼で気に入らない相手だったら、その人には仕事を発注しなくてもいいし、受ける側だったら受注しなくてもいいわけだ。
 
いわゆる大手の中心にいる人たちというのは、このことをわかっている。
だから、自分のくだらない振る舞いで会社にとってどれだけ不利益が生じるのか、ちゃんと考えて振る舞っている。
それが、マナーだったり、礼節として身についていく。
相手の忠告を聞かなかったり、相手のことを考えないスケジュールや内容を示してくる人というのは、仕事ができない人でもあるもんだ。
そういう人ほど、色々注文をつけてはクオリティを下げ、二度手間を増やし、余分なコストを発生させる。
本来、忠告というのは職業倫理の賜物なのだから、聞き入れた方が身のためなのだ。
 
ぼくが人を育てるときに、実務内容よりも礼節に口うるさくなるのは、すべての人間関係における優先事項になるからだ。
つまり、相手への配慮ができるというのは、それだけで「有能」になる。
自分が何かを得ようとして相手に会うのは、普通の人。
自分が相手に何を与えられるかを考えながら会うのが、有能な人だ。
誰かと会うときに、何にも考えずに会うっていうのは、とても失礼なこと。
楽しむだけでも、お互いが楽しむための方法を持っていないと。
それが、友達になるってことだ。