Archive for 2018.7

考えるのは偉いのか?

2018.7.26

たくさんの現場で、考える必要のないのことまで考えることを、良しとしているでしょう。
正確には、考えた気になっているだけです。
「俺はこれだけ考えている」というのは、一種の説得力が増す方法かもしれません。
けれど、説得する必要があるのか?とも思うわけです。
 
いいモノが目の前にあったら、いいよね。
美味しい食べ物を食べたら、美味しいよね。
美味しいって一言言うのかもしれないし、黙々と箸を止めずに食べるかもしれない。
もちろん、世界中のヒトが同じように美味しいと思うことはないでしょう。
ある程度のヒト、もっと言えば、届けたいヒトが美味しいと言ってくれるだけでも、その料理は完成されている。
 
目の前にあるモノやサービスも、これと同じことです。
全員が良いと思えなきゃダメと思うと、考えなくてもいいところまで、考えなきゃいけなくなる。
その結果、届けたいヒトに届かないモノになる。
届けたいヒトはだれなのか。
 
こういうことは自戒を込めて、たまーに思っています。
難しいですけどねー。
って、これも考えた気になっているのかってね。

写真サークルのアパート。

2018.7.25

連日の暑さにまいっているヒトも多いかと思いますが、こうも暑いと「大学時代の部室」を思い出します。
当時、ぼくは写真サークルに入っていました。
高校までいっさい写真に興味がなかったにも関わらず、入学式の翌日、サークル勧誘の看板で出会った女子大生の先輩についていって、そのまま入部。
(俗に言う一目惚れで、間抜けがほいほいついていったわけだ)
 
ま、それがきっかけで、卒業後に、ぼくは写真家になったわけだが、今日はこの話ではなくて、部室の暑さについて話したいんだ。
 
当時、ぼくらの通っていた大学では同好会以上のサークルのみ、学内に部室をあてがわれていた。
そして、ぼくらの写真サークルは愛好会だったのだ。
大学から部室をあてがわれていたのは、もうひとつの写真サークルであり、卒業アルバムを制作していた。
どちらかというと、実直に仕事を達成していくタイプで、学内からの信頼も厚かったように思われる。
(ぼくの勝手な妄想も入っている)
 
愛好会だったぼくらのサークルは、初代部長たちが大学の近くにアパートを借りて、そこを部室としていた。
初代から数えて3代目となっていた当時、大学生たちの溜まり場と化していた1DKの和室はすでにボロかった。
毎月の家賃は発生するから、ぼくのように、女子の先輩にほいほいついていく、いたいけな新入生が必要だったのだ。
(今となって考えれば、けっこうな悪徳商法、もとい、考え抜かれたマーケティング戦略だ)
畳はささくれを通り越して、侵入者の衣服にまとわりついた。
もちろん風呂なしだし、便所も和式だ。
 
元々がボロかったのだろう、それに加えて、ダイニングキッチンを暗室にしていたため、酢酸の鼻をつく臭気と閉め切った熱気は、今から考えると単なる拷問部屋だったかもしれない。
それでもぼくらは時間を見つけてはアパート部室を訪れ、夜通し酒を飲みながら、現像やら写真を焼いたり(フィルムから写真にすることを「焼く」という)と、連日暗室作業を繰り返していた。
 
酒によって(酔って)脱水傾向になりながら、暗がりの中に、暗室の赤い光。
暑い。臭い。暑い。臭い。
焼肉を食べたヒトは自分のニンニク臭さがわからないが、それと同じだろう、次第に臭さはわからなくなり、暑さと戦うことが、若き日の写真バカを育てていた。
(現に、当時の学友たちは、ぼくの発する臭いを、写真サークルの名前をとって「サボイ臭」と言っていた)
そんな戦いに酔いしれていた節もあるから、単なるバカだったのだ。
 
このバカさ加減によって、若き日のぼくは、その後の道を走ることができたのかもしれない。
最近の連日の暑さの中、仕事のために外を歩いていると戦う気分になるのは、当時の影響もあるだろう。
もしも今、少しでも、仕事で依頼人の役に立てているのなら、当時の暑さと臭さの賜物と言いたい。

ブランディングが必要ない場合。

2018.7.24

最近、書く内容が前日のつづきであることが多いですが、今日もそんな流れになっています。
昨日は「デザインをする必要がない場合」について書きましたが、今日は「ブランディングの必要がない場合」についてです。
 
先に答えを言っちゃうと、「事業価値を向上させなきゃいけない症状と、伝え方や売り方が間違っている症状は、まったく別の症状」ということです。
前提として、ブランディングとは何かって話になりますが、「デザインの力で事業価値を向上させること」をブランディングといいます。
本当はすごい価値があるのに、あんまり価値が高そうに見えなかったモノを、デザインの力でなんとかする、そういうことをひっくるめてブランディングと言います。
 
ということは、何にもしなくとも「価値が高い」と思われているモノには、ブランディングって必要がないんですよ。
たとえば、「高級な工芸品」とか、「文化財」とか。
こういったモノを作っているヒトからも、ブランディングの相談を受けることがありますが、一般のヒトたちの認識でも、すでに事業価値は高いと思われています。
 
むしろ「高すぎる価値」なんです。
だから、この高すぎる価値を、一般のヒトたちでも手が届くぐらいの価値にすることが、本当は必要なんです。
 
それは、売り方や伝え方です。
飛行機のエコノミークラス、ビジネスクラス、ファーストクラスがあるように、手に取りやすくなる入門品というのを、本場の技術で提供することができたら、今までの高すぎる価値も、高すぎる理由がちゃんと伝わるようになります。
しかし、今日の工芸品と生活者の関係は、エコノミークラスすら乗ったことがないヒトに、ファーストクラスの価値を想像しろと言っているような状況です。
だから、まずは、高いレベルのエコノミークラスに乗ってもらって満足をさせつつ、「もっといい思いをしたい」という欲求を芽生えさせる。
 
めちゃくちゃ単純化して話しましたが、これが「売り方」や「伝え方」です。 
そして、ブランディングが必要ないケースのひとつの事例です。
売り方と伝え方。
こういうことも、依頼人に伝えなきゃいけないと思うんですよね。

デザインをしちゃいけない場合。

2018.7.23

デザインやブランディングが、資本主義の利潤になる差異を作り出す数ある方法の、ひとつでしかないと昨日は話しました。
何でもかんでも、クリエイティブの力で儲かる訳じゃないよってことです。
 
特に表層のデザインを入れない方がいいのが、地元に根付く店舗です。
遠くからヒトを呼ぶ必要がない店舗。
地元に根付きながら、遠くからもお客を呼び込む必要があるなら、デザイン的な見た目は必要です。
 
しかし、全然オシャレじゃない地元の店にも、ぼくは通っています。
そこも他の地域から、お客を呼び込む必要がない店舗です。
家の前にある喫茶店なんですけどね、食べ物の味の落ち着かせ方がちょうどいいし、価格もいい。
食後のコーヒーや紅茶はあんまり美味しくないけれど、ランチの後はゆっくりしたいから、まぁ、いいよね。
 
内装やメニュー、ユニフォームなんかは、いたって普通の喫茶店です。
図書館に併設されてるから、昭和レトロな雰囲気もない。
いかにも「公共施設に併設されている喫茶店」なんです。
 
それでも、通っちゃうんですよ。
看板娘たちは、どう見ても人生の先輩なのに。
常連たちは、完全に人生の先輩ですし。
 
これを今っぽいデザインに変えたら若いヒトたちは来るかもしれませんが、常連のじいちゃんたちは入りにくくなります。
「メニューが読みにくいよ」とかって言われるのが予想できます。
 
デザインで変えていいモノと変えちゃいけないモノがある。
こういうことを、ぼくらはちゃんと伝えなきゃね。

差異が利益をだすだけ。

2018.7.22

昨日、「現に最近のクリエイティブってどれも似ていますよね」ということを書きました。
すばやいビジネス手法の弊害のひとつに挙げたつもりです。
 
しかし、改めて考えてみると、資本主義において致命的な弱点であることに気がつきました。
資本主義で利益を出すためには「差異」が必須です。
価値の差異を利益にする商業資本主義でも、コストの差異を利益にする産業資本主義でも同じです。
古代文明から変わらない資本主義の本質といえます。
(経済学者では「ノアの洪水以前から」と言うんですね)
 
つまり、「似ている」ということは「差異化」ができていないということです。
「差異化→売れる→模倣される→差異化→…」を繰り返すのが資本主義ですが、最近のクリエイティブが似通っているということは、イミテーション(模倣)でしかないということ。
すばやい手法が、クリエイティブ的手法とはほど遠いやり方だと感じていましたが、出てくるものが差異化できないのなら、資本主義的には利益になりません。
 
デザインやブランディングの気運が高まっているのも、現代経済の差異の作り方に適しているからです。
それだけの理由です。
大量生産・大量消費の産業資本主義では利益が出せず、多くの業界が価値の差異を示さなきゃならない商業資本主義に転換せざるを得なくなった。
(海外ファストファッションの撤退が目立ちはじめてきましたね)
 
価値の差異のはじまりは「表層の見た目」です。
これがほとんどのヒトが認識している「デザイン」に当たります。
この「表層のデザイン」で差異を作り出し、利益を出してきたけれども、模倣が当たり前になったら、今度は事業価値そのものにアプローチする「ブランディング」によって差異を作り出すようになりました。
 
それにも関わらず、「似ている」現象に陥るのなら、やり方に問題があるか、ブランディングで差異を作り出す時代は終焉を迎えているということです。
社会に安価で粗悪なモノやサービスが溢れているのは変わらないので、ブランディングによる差異化が終わっているとは考えづらいです。
そうであれば、やり方が、クリエイティブの差異化を作り出す方法になっていないということです。
 
すばやさで一日を回せば、自ずと、ぎちぎちな一日になります。
すばやさのやり方を推進すれば、ぎちぎちな毎日になります。
クリエイティブと呼ばれるものを発展させてきたのは、暇人です。
ヒトにもビジネスにも、余白が必要なんです。
 
散歩に出かけるもよし、喫茶店の冷房で惚けているのもよし、美術館や映画館に行くもよし、キャンプに出かけて焚き火を見るのもよし、もっと簡単に、職場のヒトと他愛のない雑談をしてかき氷を食べるのもよし。
 
余白の作り方はたーくさんあります。
これが、本当のクリエイターだと思うんですよねー。