Archive for the ‘ビジネスの健康’ Category

二つにわかれる。

2019.11.18

以前手掛けたロゴが、来年発売されるデザイン系の年鑑に掲載される。
クリエイティブの評価が高く、事業も成長していっている案件と、そうでない案件とで顕著な差が生まれている。
これらの違いは、進め方の違いが影響している。
 
ぼくは度々、専門家を医者として喩えているが、医者の見立てた治療方針に、患者がとやかく注文をつけて、いい治療結果や予防診療が成り立つはずもなく。
この喩え話通りのことが、ぼくの仕事にも起きている。
ぼくは別に凄い人間ではない。
欲望を持たずに、患者(クライアント)の事業を診ているだけだ。
 
その上で、気がついたことがある。
議論が活発な企業ほど、危うい。
何故なら、議論を活発にするのは簡単だからだ。
相手の話すことを信じなければいい。
そうすれば、自ずと反論内容が思い浮かび、詰問できる。
これで、議論になり、勝ち負けが生まれる。
 
そうではなく、雑談が豊かな企業は、成長が見込める。
雑談は脱線しないと、豊かにならない。
つまり、本筋である事業から外れた会話が、時間をとってどれだけできるかだ。
さらに、雑談を続けるには、相手の話したことを信じて、肯定しないと続かないものだ。
街で見かける、子どもの送り迎えのときの井戸端会議なんかは、まさに雑談の典型であり、共感と肯定によって、成り立っている。
そこに、発見を与えると、ビジネスになる。
だから、ビジネスをしたいのなら、雑談が発端になるのだ。
 
ぼくが出会った人たちでも、真っ二つに分かれる。
雑談が弾む人の事業は成長しているし、そうでない事業は停滞する。
ビジネスの人たちは、雑談を勘違いしている。
「儲けよう」という意志が詰め込まれている話は、雑談とは言わない。
第一は雑談、第二に発見を加える、第三にたまたまビジネスとして成立する。
必ず、この順序だ。
なぜなら、発見を加えて市場に出したとしても、運も絡んでくるからだ。
そして、とっかかりとなる雑談を成立させるためには、その話を信じて、肯定するところからはじまる。
 
先の医者の喩え話と同じように、相手の言うことを信じないと、ごちゃごちゃつまらない話で時間が過ぎるということだ。

友達になる感覚。

2019.11.17

先日も書いた通り、ぼくはこの9月から英語を習っている。
次回が最後の授業なのだが、ぼくはこのクラスが好きだ。
クラスが好きになるというのは、やっぱり、集まっている人たちがいいんだろうなぁ。
先生もいいし、生徒たちもいい。
 
普段、ぼくはビジネスのセミナーなどにはあまり行かないのだが、それは集まっている人たちの目的意識が一種類に固まりすぎているからだ。
あの集団意識や、その中でのマウンティング感に対して、忌避感というか、危険な匂いを嗅ぎとって避けている。
 
けれど、通っている英語クラスのように、趣味のような、でも人生を豊かに広げてくれる内容で、目的意識もバラバラ、世代もバラバラのクラスというのは、率直に楽しいものだ。
(おそらく)20代から80代までいると、全員が助け合う。
年長者だから助けられるばかりかと言ったら、そんなことはなく、ぼくらの活力源になってくれる。
若い人だって、みんなより優れているところがたくさんある。
だから、義務のような助け方じゃなくて、朗らかな助け方というか、クラスで作られる雰囲気のすべてが爽やかなんだ。
ちょっとくだけた雰囲気もありつつ、それぞれがグッドパーソンで、グッドピープルになっている。
 
「これがビジネス英会話だったら、どうだっただろう?」と考えるときがある。
もちろん、先生の進め方にもよるだろうが、やはり、もうちょっと固まった集団意識やマウンティングのようなことが起きてしまうんじゃないだろうか。
「俺はできたよ」みたいな。
本当はそんなマウントなんて必要ないことは、みんなわかっているのに、日本のビジネスの現場では、いまだにこんな無益なことが起きている。
 
話を戻そう。
毎週土曜日、ぼくはこの英語のクラスを受けると、なぜだかわからないが、人助けをしたくなるような、爽やかな気分になるのだ。
初級クラスということも手伝っていると思うが、世代も立場も超えて、みんな楽しみながら四苦八苦して、先生も道標をつくってくれて、一緒にゴールを目指している。
これを約4時間ほど通していると、集団意識とは違った、柔らかい綿(わた)のようなつながりができる。
「困っていたら助けるよ」と、自然と言いたくなるような感覚だ。
昔、たまたま一緒になったクラスメイトと、友達になるような感覚だ。
この感覚は忘れたくないんだよなぁ。
たぶん、他でも必ず活かせると思うんだよね。
こうやって仕事をした方が、絶対に楽しいでしょ。

のらりくらり。

2019.11.16

ぼくはかなり、のらりくらりと話す。
むしろこれを心掛けている。
この話し方のいいところは、相手に考える時間を与えることだ。
そして、相手を説得しようとは思っていない。
相手がぼくの話を採択するか、しないかだけ。
不思議と、採択しているクライアントっていうのは、ちょっとずつだが事業がうまいこといっている。
 
のらりくらり話すことの、いいことのひとつに、「馬鹿に見える」というのがある。
馬鹿に見える者の話を採択するか、しないかで、その人の人間性がわかる。
ぼくも人間なので、なるべく無益な時間を過ごしたくないものだ。
そのためには、「いい人」と過ごす時間を増やして、「嫌な奴」と過ごす時間を減らした方がいい。
自分を小さく見せると、相手の本性が出てくるものだ。
つまり、のらりくらり話すのは、相手に考える時間を与えながら、相手がどんな人間なのか知るための話法とも言える。
 
この話し方を身につけたいと思ったら、子どもと会話をするといい。
子どもの話を最後まで聞き、その内容についてさらに尋ねたり、肯定する考えを話していると、のらりくらりと話すことができるようになる。
子どもが近くにいなければ、意思の疎通が難しい相手ということかな。
あなた自身の英語が堪能でなければ、英語圏の人と会話をするのもいい。
言語能力が高く、意思の疎通が容易な相手と話をすると、会話は弾み、テンポが速くなるものだ。
だから、そういう相手だと、遅速の話法は身につきにくい。
難しいことに飛び込めるかどうかが、鍵なのだ。

与える人であれ。

2019.11.15

もしもいいデザインを作りたいのなら、欲望を減らすことだ。
欲望は限りなくゼロに近い方がいい。
あれをしたい、これをしたい、ではなく、何を与えることができるのか。
あなたに何を与えることができるのか、社会に、地球に何を与えることができるのか。
「よりよい地球にしたい」ではなく、自分が与えられるものを考えることだ。
「したい」は欲望であり、欲望は不安を生む。
欲望と不安は、どんどん大きくなる。
欲望と不安の大きい仕事は、うまくいかない。
だから、根っこにある欲望を限りなくゼロになるまで減らしていく。
その上で、何を与えることができるのか、を仕事にする。
 
これは、得意なことを仕事にする、というのと似ている。
だが、そこに「うまく生きたい」とか、「そっちの方が稼げるから」といった理由はなしだ。
生きたいとか、死にたいとか、っていう欲望もない方がいい。
「Just Give.」
ただ、これだけ。
 
けれど、間違ってはいけないのは、死にに行くのとは違う。
強欲な人に、与え続ける人生を選ぶ必要はないのだ。
お願いばかりをする人、無礼な人、権利を主張してばかりの人などは、相手にしなくていい。
そういう人たちは、自分の理想を叶えることだけに夢中なので、あなたを利用した後はあなたのことなど、どうでもよくなる。
そんな人たちのために生きる必要はないが、それでも何も与えないことに心残りが生まれてしまうのなら、「5分〜15分程度の助言を与えるだけ」をするといい。
助言を与えるだけなので、その助言を採択するかの権利は相手にある。
そして、「与えるだけ」なので、相手がどういう反応をしようが、「一度与えたら」それでおしまいだ。
助言をしたら、「Good By.」と言って、その場から去る。
 
同様に、与えるだけだと、生活費を稼ぐことができないと考える人もいるが、それも大丈夫。
死にたいのではないのだから、与えた分の報酬を貰えばいい。
生活費はもちろんのこと、社会的に死にたいわけじゃないから、みすぼらしくならない格好を維持する費用も必要だ。
たとえば、冬場にボロボロのコートをを着る必要はないし、夏場に匂いのキツイTシャツを着る必要はない。
フケまみれの髪である必要もないし、歯がボロボロである必要もない。
隙間風の吹く部屋に住む必要もないし、騒音で苦しむ場所に居続ける必要もない。
もちろん、逆に、必要以上に着飾る必要もない。
こうやって考えていけば、たとえ会社であっても、製品やサービスの価格設定はできる。
過度な原価率を設定したり、過剰なサービスを提供したりして、あなたたちが苦しみ、死に向かう必要はないのだ。
稼ぎたいという欲望を減らして、与えることをするように、自分たちが犠牲になる必要はなく、生きることができる金額を設定すればいいのだ。
 
ここまで読んでくれた方はお気づきだろうが、「欲望を減らし」「与える」というのはいいデザインを作るだけではなく、いい仕事をするため、いい人生を送るための方法だ。
ただし、前提として「いい仕事をしたいから」や、「いい人生を送りたいから」ではなく、「ただ、与えたいから」でいい。

今までの話を、もっと詳しく知りたいという方は、『Give & Take』という本を読むといい。
というのは、ぼくはこの本を読んで、救われた部分がある。
 
ここまで読んでいて、あなたはいくつかの疑問を持ったかもしれない。
「『与えたい』というのは、欲望じゃないのか」
「なぜ、与えたいのか?」
ぼく自身も、この本を読む前までは、この二つの疑問を自分自身に持っていた。
そして答えが出ないままだったのだが、答えがでるはずもないことが、この本を読んでわかったのだった。
 
「世の中には、与える性質の人がいる」
 
『Give and Take』の「Give」は「与える人(ギバー)」であり、「Take」は「奪う人(テイカー)」である。
そして、この間であり、損得勘定で動く人のことを、「マッチャー」と呼ぶらしい。
世の中にいる人は、少なからず、すべての要素を持っていて、どれが一番強い性質かによって、これら三つのタイプに分かれるという。
そのテストもあるのだが、ぼくは「ギバー」だった。
だから、理由を述べようとすれば、「そういう性質なんだ」が妥当だったのだ。
そりゃそうだ、与えることに理由なんてないさ。
もしも、過去のぼくと同じように、モヤモヤしている人がいるのなら、この本はおすすめだ。
ぼくは、かなり生きやすくなった。

合理主義と個人の自由を支えるもの。

2019.11.12

最初はとまどいを感じたドイツの超合理的な街中と人々。
これを支えているのは、個人主義と最悪禁固刑になる雇用主への規制。
 
「お金以外の価値」を日本人は称賛するが、これを実現している国のひとつが、ドイツとも言えそうだ。
帰国後、『ドイツ人はなぜ、年290万円でも生活が「豊か」なのか』という本を読んでいる。
サービスもよくて、低所得でも不自由なく生活できて、残業もなく、税金が安く、集団行動の輪を乱さない、という日本人が抱いている幻想は、幻想でしかないということがよく分かる本。
 
サービスが向上すれば自ずと価格は上がる。
安いサービスなら、期待値を下げる必要がある。
嫌なら買うな、嫌なら買わない、これだけ。
低所得でも不自由なく生活させるためには、税金は高くなる。
残業なく、自分の時間を確保させるためには、雇用主側を規制せねばならず、同時に気兼ねなく休みを取れる個人主義を徹底しなければならない。
生産性の低い者は、自ずとクビになる。
離職者でも再就職の努力をしていれば、生活できるように政府が補助してくれる。
企業には規制、個人には努力。
 
ベルリンの街を歩いていて、常に感じていた「考えている奴の雰囲気」。
けれど、街行く人々を見ても、まったく「おしゃれ」だと思わなかったように、見てくれはいたって普通。
レストランにいても、役割分担がはっきりしていて、注文を受ける人がどれだけ忙しく回転していても、その人からしか注文させない。
帰国後、本を読んでわかったが、それでも従業員の働き方の満足度は高いようだ。
 
ドイツの成長率を見れば、日本のように人口減少が避けられず、労働生産性を高めなきゃいけない国が取るべき方法のひとつでもあるだろう。
規制と個人主義。
従業員に残業させたら、経営者や上司は最悪禁固刑とな。
そりゃあ、何がなんでも定時で帰すし、休暇も取らせる。
みんな、何がなんでも定時で帰らされたり、休暇をふんだんに取らせるんだから、サービスが悪くても当たり前だし、なんの気兼ねもなくなる。
すると個人のやりたいことに充てる時間が長くなるから、個人主義でも問題なくなる。
それでいて、成長率が日本より高く、環境への意識と取り組みも水準が高いって、「そういうところもあるよね」では、終わらせない方がいいだろう。
質素に、自由に暮らすために必要なものが見えたか。
卵が先か鶏が先かではなく、「規制が先」と言える結果だ。
 
ふと気がついたことがある。
日本で「お金以外の価値」とか「効率を重視しない生き方」を声高に言っているのって、経営者層ではないだろうか。
少なくとも、ぼくが会った中で言うと、全員役員レベル以上だ。
もしも、従業員とギャップがあるのなら、ドイツで言うところの罰金や禁固刑になるのかな。