Archive for 2019.11

与える人であれ。

2019.11.15

もしもいいデザインを作りたいのなら、欲望を減らすことだ。
欲望は限りなくゼロに近い方がいい。
あれをしたい、これをしたい、ではなく、何を与えることができるのか。
あなたに何を与えることができるのか、社会に、地球に何を与えることができるのか。
「よりよい地球にしたい」ではなく、自分が与えられるものを考えることだ。
「したい」は欲望であり、欲望は不安を生む。
欲望と不安は、どんどん大きくなる。
欲望と不安の大きい仕事は、うまくいかない。
だから、根っこにある欲望を限りなくゼロになるまで減らしていく。
その上で、何を与えることができるのか、を仕事にする。
 
これは、得意なことを仕事にする、というのと似ている。
だが、そこに「うまく生きたい」とか、「そっちの方が稼げるから」といった理由はなしだ。
生きたいとか、死にたいとか、っていう欲望もない方がいい。
「Just Give.」
ただ、これだけ。
 
けれど、間違ってはいけないのは、死にに行くのとは違う。
強欲な人に、与え続ける人生を選ぶ必要はないのだ。
お願いばかりをする人、無礼な人、権利を主張してばかりの人などは、相手にしなくていい。
そういう人たちは、自分の理想を叶えることだけに夢中なので、あなたを利用した後はあなたのことなど、どうでもよくなる。
そんな人たちのために生きる必要はないが、それでも何も与えないことに心残りが生まれてしまうのなら、「5分〜15分程度の助言を与えるだけ」をするといい。
助言を与えるだけなので、その助言を採択するかの権利は相手にある。
そして、「与えるだけ」なので、相手がどういう反応をしようが、「一度与えたら」それでおしまいだ。
助言をしたら、「Good By.」と言って、その場から去る。
 
同様に、与えるだけだと、生活費を稼ぐことができないと考える人もいるが、それも大丈夫。
死にたいのではないのだから、与えた分の報酬を貰えばいい。
生活費はもちろんのこと、社会的に死にたいわけじゃないから、みすぼらしくならない格好を維持する費用も必要だ。
たとえば、冬場にボロボロのコートをを着る必要はないし、夏場に匂いのキツイTシャツを着る必要はない。
フケまみれの髪である必要もないし、歯がボロボロである必要もない。
隙間風の吹く部屋に住む必要もないし、騒音で苦しむ場所に居続ける必要もない。
もちろん、逆に、必要以上に着飾る必要もない。
こうやって考えていけば、たとえ会社であっても、製品やサービスの価格設定はできる。
過度な原価率を設定したり、過剰なサービスを提供したりして、あなたたちが苦しみ、死に向かう必要はないのだ。
稼ぎたいという欲望を減らして、与えることをするように、自分たちが犠牲になる必要はなく、生きることができる金額を設定すればいいのだ。
 
ここまで読んでくれた方はお気づきだろうが、「欲望を減らし」「与える」というのはいいデザインを作るだけではなく、いい仕事をするため、いい人生を送るための方法だ。
ただし、前提として「いい仕事をしたいから」や、「いい人生を送りたいから」ではなく、「ただ、与えたいから」でいい。

今までの話を、もっと詳しく知りたいという方は、『Give & Take』という本を読むといい。
というのは、ぼくはこの本を読んで、救われた部分がある。
 
ここまで読んでいて、あなたはいくつかの疑問を持ったかもしれない。
「『与えたい』というのは、欲望じゃないのか」
「なぜ、与えたいのか?」
ぼく自身も、この本を読む前までは、この二つの疑問を自分自身に持っていた。
そして答えが出ないままだったのだが、答えがでるはずもないことが、この本を読んでわかったのだった。
 
「世の中には、与える性質の人がいる」
 
『Give and Take』の「Give」は「与える人(ギバー)」であり、「Take」は「奪う人(テイカー)」である。
そして、この間であり、損得勘定で動く人のことを、「マッチャー」と呼ぶらしい。
世の中にいる人は、少なからず、すべての要素を持っていて、どれが一番強い性質かによって、これら三つのタイプに分かれるという。
そのテストもあるのだが、ぼくは「ギバー」だった。
だから、理由を述べようとすれば、「そういう性質なんだ」が妥当だったのだ。
そりゃそうだ、与えることに理由なんてないさ。
もしも、過去のぼくと同じように、モヤモヤしている人がいるのなら、この本はおすすめだ。
ぼくは、かなり生きやすくなった。

ドイツと似ていた。

2019.11.14

まだ続くドイツネタですが、帰国しながら考えていたことがあります。
「ドイツの人たちって、何かと似ている」
帰ってきて、数日立って気づきました。
「あ!俺じゃん!」
なんとも間抜けな気づきですが、「合理的」「他者に期待しない」「緩急をつけて過ごす」「教養好き」「過剰なおまけをしない」「無駄が嫌い」「見てくれを気にしない」「思想としてのエコロジー」「費用対効果を考える」。
 
生産性を上げながら、エコロジカルに生きることは可能だ。
稼ぎが減ったとしても、無駄な物は作らない。
礼節を失わないためにも、教養は好きだ。
他者に期待したら憤慨するだけなので、何も期待しない。
自分でやった方が合理的だから、自分で行う。
 
これらはぼくの思想のような、生き方のようなものです。
特にこの一、二年ほどはこの傾向が顕著な気がしています。
 
ちょっと誤解を与えそうなのが、「期待しない」ということでしょうか。
信じているけれど、期待しない、ということです。
たとえば、他人に対して、できないことを依頼したりなどはしません。
その人が「本当にできない」と言うことは信じています。
その人が「できる」と言うことも信じています。
けれど、「できる」と言ったからといって、「満足を超える仕上がりになる」とは期待していないのです。
そんなこと、生まれて一度も経験していません。
さらにもっと言えば、「その人ができなくなる」可能性も考えています。
たとえば、その人が事故に遭遇して、死んじゃうかもしれませんし。
ま、それは可能性として低いでしょうが、インフルエンザに罹ったりして、仕事ができなくなるかもしれません。
 
こうやって書いていると冷たい人と思われそうですが、その代わり、仮にできなくなっても、ぼくは怒らないんです。
「いつになったらできる?」もしくは「別の人に依頼した方がいい?」という質問をして、次の行動に移っていきます。
ぼくがやった方が合理的なら、そうしますし。
こういうスタンスでいると、相手も気兼ねなく休めるでしょう。
そして、こういうスタンスで生きてきたから、ぼくは色んなことができるようになりました。
それも、ドイツ人っぽいところだったんです。
 
こういう風に考えていると、けっこう親近感を持っちゃうものですね。
やっぱり、暖かくなったらまた行ってみたいな。

哲学というもの。

2019.11.13

哲学ってあるでしょう。
生きる上での哲学や、仕事をする上での哲学とか。
ぼくの至った結論というのがひとつあり、それは「哲学がほとんど重ならない人とは、距離をとるのが一番」です。
 
たとえば、「話さなきゃわからない」ということがあります。
けれど、話しても解決しないことはあります。
話した結果、答えが出ないことや「しようがないよね」ということだってあります。
ぼくはこの考えの持ち主です。
 
一方で、世の中には「話せば解決する」と信じている人もいます。
いわゆる「議論好き」と呼ばれる人です。
残念ながら、こういう哲学の人とは、ぼくは一緒にはいれないです。
話好きな人は好きですが、議論をすれば解決すると信じている人と議論をして、解決策を出しても、うまいことにはならないんです。
たいてい、気持ち悪さの残る失敗をする。
失敗をする解答を導き出し続ける。
 
こうならないように、ぼくは「議論」ではなく、「話し合い」という言葉を選んでいます。
そして、「話さなきゃわからないけれど、話しても解決できないことはある。でも話さなきゃ何もわからないから話す」ということを前提に、話を始めています。
ぼくは、こういう哲学を持っている人ということになり、一緒にいる時間が長くなったり、多くなったりする人とは、こういうことの重なりが多い人の方が、話は弾むものです。
活発な議論ではなく、話が発展することを望んでいるからです。
 
これらは同じなようで、まったく違うんです。
これは「日本人は議論が苦手」ということとは違って、会話をする上での心構えなんです。
問題解決の話し合いだろうが、雑談だろうが、会話をする相手とどういう話をしたいか。
どうやって楽しんで、どうやって楽しませて、ということです。
雑談だと元気になるけれど、問題解決だと元気がなくなるのとも違う。
どちらも同じテンションで、話をしようと心がけています。
雑談で真面目なトーンのときもあるし、問題解決でふざけているときもあります。
こういうことも含めて、その人の哲学が滲み出てしまうものです。
 
善いとか悪いとかじゃなくて、この考え方の違いが哲学と呼ばれるものです。

合理主義と個人の自由を支えるもの。

2019.11.12

最初はとまどいを感じたドイツの超合理的な街中と人々。
これを支えているのは、個人主義と最悪禁固刑になる雇用主への規制。
 
「お金以外の価値」を日本人は称賛するが、これを実現している国のひとつが、ドイツとも言えそうだ。
帰国後、『ドイツ人はなぜ、年290万円でも生活が「豊か」なのか』という本を読んでいる。
サービスもよくて、低所得でも不自由なく生活できて、残業もなく、税金が安く、集団行動の輪を乱さない、という日本人が抱いている幻想は、幻想でしかないということがよく分かる本。
 
サービスが向上すれば自ずと価格は上がる。
安いサービスなら、期待値を下げる必要がある。
嫌なら買うな、嫌なら買わない、これだけ。
低所得でも不自由なく生活させるためには、税金は高くなる。
残業なく、自分の時間を確保させるためには、雇用主側を規制せねばならず、同時に気兼ねなく休みを取れる個人主義を徹底しなければならない。
生産性の低い者は、自ずとクビになる。
離職者でも再就職の努力をしていれば、生活できるように政府が補助してくれる。
企業には規制、個人には努力。
 
ベルリンの街を歩いていて、常に感じていた「考えている奴の雰囲気」。
けれど、街行く人々を見ても、まったく「おしゃれ」だと思わなかったように、見てくれはいたって普通。
レストランにいても、役割分担がはっきりしていて、注文を受ける人がどれだけ忙しく回転していても、その人からしか注文させない。
帰国後、本を読んでわかったが、それでも従業員の働き方の満足度は高いようだ。
 
ドイツの成長率を見れば、日本のように人口減少が避けられず、労働生産性を高めなきゃいけない国が取るべき方法のひとつでもあるだろう。
規制と個人主義。
従業員に残業させたら、経営者や上司は最悪禁固刑とな。
そりゃあ、何がなんでも定時で帰すし、休暇も取らせる。
みんな、何がなんでも定時で帰らされたり、休暇をふんだんに取らせるんだから、サービスが悪くても当たり前だし、なんの気兼ねもなくなる。
すると個人のやりたいことに充てる時間が長くなるから、個人主義でも問題なくなる。
それでいて、成長率が日本より高く、環境への意識と取り組みも水準が高いって、「そういうところもあるよね」では、終わらせない方がいいだろう。
質素に、自由に暮らすために必要なものが見えたか。
卵が先か鶏が先かではなく、「規制が先」と言える結果だ。
 
ふと気がついたことがある。
日本で「お金以外の価値」とか「効率を重視しない生き方」を声高に言っているのって、経営者層ではないだろうか。
少なくとも、ぼくが会った中で言うと、全員役員レベル以上だ。
もしも、従業員とギャップがあるのなら、ドイツで言うところの罰金や禁固刑になるのかな。

英語学習。

2019.11.11

9月からテンプル大学の生涯教育で英語を学んでいますが、ドイツに行って思いました。
「通っていてよかった」と。
慣れるということを痛感したんですよね。
 
慣れると、不安が減る。
不安が減ると、移動距離を増やすことができる。
移動距離が増えると、出会うものが多くなる。
出会いが多くなると、学びが多くなる。
 
ドイツは寒く、生憎の天候の日が続いたのにも関わらず、毎日外に出て、どこかしらに行っていたのは、英語に関する不安が減っていたことが大きいです。
これって、子どもが徐々に移動距離を増やしていく過程と同じだと気づきました。
食う寝る泣くしかできなかった赤子が、這うことができるようになり、歩けるようになり、自転車に乗れるようになり、移動距離が増えていきます。
安心できる人がいないと泣いていた子が、いつの間にか、その人がいなくても色んなところへ自ら行こうとします。
それは、安心できるものによって、不安が減っているからです。
この段階って、不安に打ち勝つよりも前の段階です。
不安が減って、経験して、「あれ?けっこういけるじゃん」「ちょっと楽しいじゃん」を積み重ねている段階です。
これを積み重ねていくうちに、「不安に打ち勝つイメージ」ができるようになって、不安に挑むようになります。
 
超初心者クラスのグループレッスンを、たった1ヶ月弱。
徐々に、普段の会話にも英語が混ざってきて、お笑い芸人のような話し方になっているときもありますが、それはそれで必要な段階だと思っています。
日本語英語を「あれ?」と思ったり。
こういうのも、ちょっとずつ慣れてきているってことなんでしょう。
学校に通うの、ありですよ。