Archive for 2019.10

マッピング。

2019.10.11

施策の計画を立てるとき、ぼくは色んなところでマッピングを勧めるんですが、初めてやる人は、どうしても下手なんです。
正解も不正解もないのに、すぐに筆が止まってしまう。
ちなみに、マッピングというのは、連想ゲームのように、「あるもの」と「別のあるもの」を結びつけていく思考方法です。
最初に基点となる単語を白紙の真ん中に書いて、この単語から連想されることを書いては繋げていく方法です。
ひとつの単語から、ふたつの単語が連想されるのなら、ふたつの方向へ枝分かれします。
みっつならみっつに枝分かれして、それぞれ連想させていきます。
たったこれだけのことです。
紙とペンがあれば、誰でもできます。
 
けれども、初めてマッピングをやった人は、大抵、A4一枚を埋める前に終えてしまいます。
文字がデカいとかって反則技はなしですけど、それでも、馬鹿デカい大きさの文字で書く人もいないので、やっぱり、心の壁が大きくて強いのです。
 
だけど、それでいいのです。
どれだけ自分の心の壁が大きくて強固なものなのか、視覚化されるのはとてもいいこと。
その後の対策が立てられますからね。
 
もうひとつ、マッピングですぐに筆が止まってしまう人の特徴は、ひとつのアイデアで頑なになりやすいこと。
ひとつの課題に対して、ひとつの回答で解決しようとしているのは、アイデアとは言わないです。
ひとつの回答で、ふたつみっつの課題を解決できるのが、アイデア。
これ、先日読んでいた『岩田さん』という本にも書いていたのですが、まさにその通りです。
そういう意味では、一問一答で会話を進めたがる人ほど、マッピングは不得意かもしれません。
 
なぜなら、マッピングをして、その後の施策がうまくいきやすいのは、枝分かれして、紙の両端まで広がっていった対極にある単語が繋がっている場合や、別の単語を基点にしたマッピングでも、同じ単語が何度も出てくる場合です。
これは多ければ多いほどいい。
繋がるということは、その単語は、それだけ出会うことが多い訳だから、自ずとキーワードになり、たくさんのことを一気に解決できるアイデアになります。
つまり、この状態に至るためには、真っ白だった紙が、単語と線で埋め尽くされている状態になっていなければならないからです。
この状態で話をしようとしたら、一問一答の会話はできません。
 
何か施策を始める前、頭を整理し、仮説を立てるためにも、マッピングはおすすめです。

慣れること。

2019.10.10

「死に慣れる」と言ったら不謹慎に思われるかもしれないが、人生を積み重ねるのは、これと同義でもある。
物語の死、遠い生き物の死、遠い人の死、知人の死、友人の死、仲のいい友人の死、ペットの死、親族の死、家族の死、恋人の死、配偶者の死、子どもの死、孫の死……歳を重ねるにつれて、死にまつわることを経験することは増える。
すべて他人の死だけれども、そのどれにおいても、自分のポジションは違うわけで、だから、すべての死にまつわる体験は、初体験なのだ。
 
日本語では、死を経験した他人との関係を、「別れ」という言葉で表現する。
だから、死に慣れるというのは、お別れに慣れるということでもある。
スピリチュアルに、死んだ人と想像上で会えることもあるが、それでもこの地上では「別れ」ている。
だから、死に上手な人は、生きている内も、別れ上手なような気がしている。
また、どこかで会えるような。
会ったら、気持ちよく再会できるような、そんな別れ方をしてくれる。
それが、「別れ慣れている」ことでもある。
どこかを辞めるとき、誰かと別れるとき、離れ離れになるとき、そのすべてを上手くやれとは言わないが、いつか来る日への予行練習でもあるんだ。

これもタイミング。

2019.10.9

映画『JORKER』を観てからの感想は、一日経っても変わらなかった。
ぼくが自分の仕事について話をするとき、「自分の得意な仕事が犯罪じゃなかっただけ」と度々言うが、まさにそういう映画だった。
主人公が選べたのが、犯罪だっただけなのだ。
世の中は主観でできているし、主観の中で似たようなものが多くなれば、それが世間の常識をつくっている。
法律の元になっているのも、多くの人が困らないようにするためのものなのだから、これも同じことだ。
 
この手の話をするときに、デザインの歴史をよく話す。
大昔、手仕事というのは賎しい仕事だった。
詩や音楽など、手を使わないで生み出せるものが崇高な芸術として認められ、絵画や彫刻などの手仕事は、賎しい仕事として思われていた。
この意識を変えたのが、ルネサンスであり、絵画や彫刻が崇高な仕事として認められるようになった。
 
しかし、デザインはまだ、賎しい仕事だった。
これを変えたのが、ウィリアム・モリス氏たちのアーツアンドクラフツ運動だった。
日本では遅れること、亀倉雄策氏たちがグラフィックデザイナーという言葉を流行らせ、それまでの商業美術とは違って、ひとつの確立されたジャンルとして日本に定着させた。
 
粗悪なデザインが街中に溢れていることは置いといて、現代において、デザインが賎しい仕事と思っている人は、少ないのではないだろうか。
けれど、そう思われていた時代はあったのだ。
 
結局、生まれた時代や環境が違うだけで、多くが変わる。
これも、昨日書いた、「タイミング」ということなのだろう。

映画『JOKER』を観た。

2019.10.8

タイミングだ。
誰と出会うか、誰と遭遇するか。
そのときに、何をするか、何をされるか。
すべてはタイミングが重なって、次のタイミングがまた起こる。
 

代弁者だった。
弱き者の代弁者だった。
この映画が高い評価を受けるのは、クオリティもさることながら、現代にはそれほどまでに弱者が多いということだ。
 

上記の二つは、映画『JOKER』を観た直後の感想だ。
冴えない境遇に生まれ育ち、困難が重なり続ける状況でも、人々から賞賛されることがある。
それがたとえ犯罪だとしても、自分が他人に影響を及ぼせる環境があれば、そこへ身を持っていくのは自然のことだ。
ましてや、代弁者となれるステージがあるのなら。
今年の夏に芸能事務所の契約問題のときに、ワイドショーに出演している人々が、強い口調で断罪していたのも、同じ現象だろう。
違ったのは、映画の中で、断罪の手を下したのが、不遇な弱者当人だったことだ。 
ぼくらが、この映画に共感を覚えたり、評価を与えたりするのは、自分にも重なる部分があるからだろう。
自らの足で這い上がれない環境にいた者にとっては、この映画の主人公の姿は、もしかしたら自分もこうなっていたかもしれないという、もう一人の自分の姿を見たのではないだろうか。
少なくとも、ぼくは想像した。
 
題材は異なるが、『チョコレートドーナツ』という映画を思い出した。
結末は違うけれど、社会的な弱き者達の映画だ。
違うのは、ジョーカーは、自分が活きる術(ジョーク)を身につけたこと。
だから、ラストシーンのジョーカーは、もう、ぼくらの知っている、強さを持ったヴィラン(敵役)になっていた。
そういう意味では、誕生の物語というよりかは、成長の物語なのだ。

小さな親切ができる身体。

2019.10.7

人と一緒に住むようになってよかったことのひとつに、小さな親切をしやすいことがある。
親切というのは、基本的に、する方が労働のコストを支払っている。
労力と時間のコストを支払い、ときにはお金のコストを支払うときもあるかもしれない。
そのコストを支払って得られるのは、親切をしなかった時の後ろめたさをなくすことぐらいだ。
何故ならば、見返りを期待していたら、それは親切とは言えないだろう。
 
ぼくは一人暮らしが長かった。
一人暮らしのときに行ういいことは、自分自身に対して必ず見返りがある。
だから、そのときに行う自分へのお節介というのは親切ではない。
親切とは、誰かと過ごすことで、経験出来ることなのだ。
同様に、仕事現場でも親切は可能だが、出世狙いのあざとい人もいたり、現代はチームワークの時代でもあるので、強制的な面も持ち合わせており、これもまた行うことを難しくする。
つまり、親切とは、まったくの赤の他人や家族のような、見返りを期待しない相手にこそ純粋に行えることなのかもしれない。
 
前置きが長くなってしまったが、小さな親切ができない状況に長くいると、いざやろうと思っても、動き出しが鈍くなる。
親切をする状況というのは、一瞬過ぎれば、機会を逃しやすいものだ。
だから、親切の動き出しが鈍くなると、やろうと思っても親切ができない身体になる。
 
ところが、人と一緒に住むと、鈍いなりにも小さな親切を重ねる状況に身を置くことになり、鈍くなった身体が徐々にほぐれて、すんなり動けるようになる。
たとえ小さなことでも、親切をするというのは、気持ちがいいものだ。
偽善かもしれないが、それでも、後ろめたさを積み重ねるよりかは、「ありがとう」と言ってもらえることの方が、生きていて気持ちがいいものだ。
 
「中身が丸くなった」と言われることが多くなったが、それはやはり、妻のお陰だろう。