小さな親切ができる身体。

2019.10.7心の健康, 日々のこと

人と一緒に住むようになってよかったことのひとつに、小さな親切をしやすいことがある。
親切というのは、基本的に、する方が労働のコストを支払っている。
労力と時間のコストを支払い、ときにはお金のコストを支払うときもあるかもしれない。
そのコストを支払って得られるのは、親切をしなかった時の後ろめたさをなくすことぐらいだ。
何故ならば、見返りを期待していたら、それは親切とは言えないだろう。
 
ぼくは一人暮らしが長かった。
一人暮らしのときに行ういいことは、自分自身に対して必ず見返りがある。
だから、そのときに行う自分へのお節介というのは親切ではない。
親切とは、誰かと過ごすことで、経験出来ることなのだ。
同様に、仕事現場でも親切は可能だが、出世狙いのあざとい人もいたり、現代はチームワークの時代でもあるので、強制的な面も持ち合わせており、これもまた行うことを難しくする。
つまり、親切とは、まったくの赤の他人や家族のような、見返りを期待しない相手にこそ純粋に行えることなのかもしれない。
 
前置きが長くなってしまったが、小さな親切ができない状況に長くいると、いざやろうと思っても、動き出しが鈍くなる。
親切をする状況というのは、一瞬過ぎれば、機会を逃しやすいものだ。
だから、親切の動き出しが鈍くなると、やろうと思っても親切ができない身体になる。
 
ところが、人と一緒に住むと、鈍いなりにも小さな親切を重ねる状況に身を置くことになり、鈍くなった身体が徐々にほぐれて、すんなり動けるようになる。
たとえ小さなことでも、親切をするというのは、気持ちがいいものだ。
偽善かもしれないが、それでも、後ろめたさを積み重ねるよりかは、「ありがとう」と言ってもらえることの方が、生きていて気持ちがいいものだ。
 
「中身が丸くなった」と言われることが多くなったが、それはやはり、妻のお陰だろう。

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