Archive for 2019.9

パラダイムシフトに必要なこと。

2019.9.20

大事なのは、学ぶ姿勢じゃないだろうかと、最近頻繁に思っている。
デザインが意識を変えられるという考え方は昔から存在している。
だが、その有用性が広まりつつあっても、普及はしてこなかった。
この理由があるとすれば、それが冒頭の「学ぶ姿勢」の足りなさだと思われる。
 
たとえば、今までが「意識A」だとすると、「意識B」に変えることが差し迫っている状態だとする。
この場合、根底の考え方から意識Bに変えないと意味がないのだが、ほとんどの人が意識Aの考え方のまま、意識Bを取り込もうとする。
だから、意識Bの人の話を聞き、試してみるだけにとどまり、意識Bの人から学ぼうという姿勢にはならない。
それで、意識改革が起きるわけもなく、そのために数々のことが古臭いまま残っている。
これは、若い企業でも同じ。
意識を変えることが下手ということは、学ぶ姿勢がないことでもある。

お節介を働いているだけ。

2019.9.19

以前にも書いた気がするが、「提案する」とかっこいい言い方をしても、その中身は「お節介を働く」のと変わらない。
分かっている人が、分かっていない人に働きかけるというのは、お節介の図式と変わらない。
見て見ぬ振りが出来ないというのは、送り手側の立場であって、受け手側の立場ではない。
なので、仕事で提案をするときには、一度しか言わないようにしている。
経験上、一度言ってきっかけを掴めない人(分からない人)というのは、どれだけアプローチを変えても分からないものだ。
一度お節介を働いて、立ち止まって考えることができる人には、もう一度お節介を働いて「考えるための手助け」をする。
こうやって、きっかけを掴んだ人にはお節介は続けていくし、一度目で分からずに、スルーしたり拒んだりした人には、もう何も必要がないので、何も言わないようにしている。
痛い目を見た方がいいのかもしれないし、もしかしたら、うまく進むかもしれない。
どちらにせよ、お節介をモノにしなかった人は、それを選んだのだから。
こういう考え方になってから、提案が通らなくても、ムキならないで済むようになった。
「お節介を働いているだけ」と思うと、精神衛生上とてもいい。

三方よしになるためには。

2019.9.18

この数年で気がついたことがある。
 
「人は『おもろい(おもしろい)』を使い慣れていない」。
 
日本はとにかく真面目ぶるのが好きな民族なので、当たり前と言ったら当たり前なんだけど、こんだけ「クリエイティブが大事だ」とビジネスの現場でも言われるようになっているのに、真面目ぶるのが抜けきらない。
だけど、「真面目ぶるのが抜けきらない」というのは事実である部分と、人々がそれしか知らない部分があることに気がついた。
これに気がついたとき、冒頭の「おもろい」を使い慣れていないにつながった。
 
大前提の話をするが、人がポジティブに物を買うとき、以下のことが起きている。
「あぁ、そうだよね〜」→「そうそう」→「え!?なにそれ!?」→「おもしろいじゃん!」。
かなり端折って書いているが、共感から発見、驚きに至れば、その発見や驚きが購買意欲になる。
「おもしろいじゃん」は「かわいい」や「超すげー」も当てはまるし、「あぁー、おちつくわー」や「これは世界を獲れるぞ」でもいい。
こういう「発見」や「驚き」を一言にすると、「おもろい(おもしろい)」だ。
 
急ぎ足になっているが、さて、話を戻すと、ビジネスの現場ではこういう話をしたり、もっと詳しく話さないと、「おもろい」と言ったときに「=(イコール)お笑い」だと捉えられてしまうし、それで人々の心が掴めるとも思っていない。
アンケートやマーケティングで数字を集めて、それらしいビジネス用語を使って説得して、「はやくて、便利で、安く」と言わないと売れないと思っている。
けれど、そんな風にして、自分たちが商品を購入していないとは考えていないのだ。
だから、「おもろい」を使いこなすまでに時間がかかる。
 
不真面目に思われたとしても、おもろい方がみんなの体力が持つし、結果も出るからね。
会社がおもろければ離職率は下がるし、いい人材も集まる。
商品やサービスが売れることにも繋がるし、社会貢献だって可能になる。
おもろいとは、三方よしになるためには必要不可欠なことなんだ。
 
最近、企業でよく話すことのひとつでした。

ぼくの仕事の作り方。

2019.9.17

よくやっていることに、今の潮流になりつつあることが古くなった未来を想像している。
たとえば、 キャッシュレスと言われる、お金を使わない支払い方法が広まりつつある今、ぼくが考えているのは、それが古くなった時代のお金の使い方だ。
すると、「貨幣より前の時代」と「貨幣の時代」と「キャッシュレスの時代」に共通していることは残り、そうでないことが変わっていくことが分かる。
 
例えば、この3つの時代に共通しているのは、安心と信用だ。
一方で、共通していないのは、持ち運びとやりとのし易さだ。
つまり、安心と信用が担保されて、持ち運びとやりとりが簡便になる時代が、キャッシュレスの次の時代。
 
とてつもなく当たり前のことを話しているが、こうやって考えると、いくつかの未来がイメージできる。
その内の一つとして、自国の貨幣を海外で使用できる世界だ。
国内外において、貨幣よりもキャッシュレスの方が便利なのは変わらないため、貨幣の流通量は減るだろう。
しかし、貨幣とキャッシュレスの安心は別の種類であるために、世界的に貨幣が全てなくなるとは考えにくい。
そうすると、貨幣の流通量が減りながら、より使いやすくしたいのが、人間の性だ。
 
仮想通貨がなかなか世界通貨にならないのは、貨幣の安心と、国としての貨幣単位の信用がないのと、国という帰属性を全く失えるほど人間は強くないからだ。
これらを持っているのが貨幣であり、貨幣を便利にしようとしたら、両替所の概念をなくさなきゃならない。
すると、考えられる方法のひとつとして、自国の通貨を海外のPOSシステム(レジ)で使える世界だ。
この実現化の最中でエントロピーが働き、貨幣の量が減り、質が高まるので、貨幣製造の質を高めることができる。
もしかしたら、漆器のように、触り心地のいい材料を用いるかもしれない。
ま、材料の話は飛躍しすぎだけれど、この前段階か、後段階になるかは分からないが、国内での使われ方が画一化される。
たとえばバスの支払い。
日本国内でもバスの乗車と支払い方法は数通りあり、これを統一するのが先か、同時か、後発かはわからないが、必ず起きるだろう。
 
これは一例だが、こういう考え方は何においても同じだ。
ゲームでも、公共施設でも、道路でも、スポーツでも、文房具でも、ITでも、農業でも何でもだ。
なので、こういう「今から普及することが古くなった未来」を想像していると、次につながる視点が手に入る。

昨日のつづき。

2019.9.16

ここ最近、気づいたことがある。
「自由を奪うこと」に、ぼくはかなり敏感だ。
亡くなっている先達に感謝しているのは、彼らや彼女らが生きていた時代、ものづくりというのは賤しい仕事だった。
それを変えてくれた。
変えてくれたことで、今のぼくらの仕事は当時よりも格段に仕事をする上での自由度が高まっている(はずだ)。
それを想像できるからこそ、感謝している。

反対に、昨日も書いたように「生産性を否定すること」に共感を覚えないのも、生産性を否定する人たちの望む社会の人たちが行うことには、自由度を奪うことになっているからだ。
 
社会福祉というのはそもそも公平性、平等性が担保されなければならない。
そして、公平性や平等性を維持するための社会福祉の実現には、国が収益を上げ、信用を得ていなければならない。
国が収益を上げるには、国民が税金を納めなくてはならない。
国民が税金を納めるためには、国民が稼がなきゃならない。
だから、納税というのは社会貢献になるわけだし、社会貢献したいと思ったら、自分の収益を上げて、納税するのが一番の近道だ。
 
けれども、この方法すら否定し、社会福祉の質を高めるのではなく、社会福祉から離れたところまで平等にしようとすれば、必ず、頑張った人ほど自由が奪われることになる。
いや、頑張らなくても、自由は奪われる。
 
理由は、生産性を否定する人は「すべての人が〇〇をすれば、生産性を上げなくてもいい社会が達成され、維持できる」という話をしているからだ。
ここには、「〇〇をしてもいいし、しなくてもいい」という、選択の自由が欠如している。
「〇〇をしなければ、△△は手に入らない」し、「〇〇をすれば、△△は手に入る」という話でなければ、人は選択する意味を失う。
選択の自由がない世界、それは、読み聞きした戦時中の時代と何も変わらないのだろうか。
物質的には変わっているが、選択の自由を奪われるという点では同じだ。
言論の自由、生産の自由、ものづくりの自由は一切なく、すべてが国のために奪い取られていたはずだ。
自分の命の使い方だって、奪い取られていたんじゃなかったのか。
やっていることは違っても、先のような「すべての人が…」という話は、人の自由を奪っている。
だから、ぼくはそのような人たちの話に共感しない。
「頑張った分だけ、選択の自由が手に入る世界」、その後、「与えるか、与えないか」も、自分で選択できる。
そういう世界の方が、ぼくは作りたいし、維持したい。