昨日のつづき。

2019.9.16ビジネスの健康, 日々のこと

ここ最近、気づいたことがある。
「自由を奪うこと」に、ぼくはかなり敏感だ。
亡くなっている先達に感謝しているのは、彼らや彼女らが生きていた時代、ものづくりというのは賤しい仕事だった。
それを変えてくれた。
変えてくれたことで、今のぼくらの仕事は当時よりも格段に仕事をする上での自由度が高まっている(はずだ)。
それを想像できるからこそ、感謝している。

反対に、昨日も書いたように「生産性を否定すること」に共感を覚えないのも、生産性を否定する人たちの望む社会の人たちが行うことには、自由度を奪うことになっているからだ。
 
社会福祉というのはそもそも公平性、平等性が担保されなければならない。
そして、公平性や平等性を維持するための社会福祉の実現には、国が収益を上げ、信用を得ていなければならない。
国が収益を上げるには、国民が税金を納めなくてはならない。
国民が税金を納めるためには、国民が稼がなきゃならない。
だから、納税というのは社会貢献になるわけだし、社会貢献したいと思ったら、自分の収益を上げて、納税するのが一番の近道だ。
 
けれども、この方法すら否定し、社会福祉の質を高めるのではなく、社会福祉から離れたところまで平等にしようとすれば、必ず、頑張った人ほど自由が奪われることになる。
いや、頑張らなくても、自由は奪われる。
 
理由は、生産性を否定する人は「すべての人が〇〇をすれば、生産性を上げなくてもいい社会が達成され、維持できる」という話をしているからだ。
ここには、「〇〇をしてもいいし、しなくてもいい」という、選択の自由が欠如している。
「〇〇をしなければ、△△は手に入らない」し、「〇〇をすれば、△△は手に入る」という話でなければ、人は選択する意味を失う。
選択の自由がない世界、それは、読み聞きした戦時中の時代と何も変わらないのだろうか。
物質的には変わっているが、選択の自由を奪われるという点では同じだ。
言論の自由、生産の自由、ものづくりの自由は一切なく、すべてが国のために奪い取られていたはずだ。
自分の命の使い方だって、奪い取られていたんじゃなかったのか。
やっていることは違っても、先のような「すべての人が…」という話は、人の自由を奪っている。
だから、ぼくはそのような人たちの話に共感しない。
「頑張った分だけ、選択の自由が手に入る世界」、その後、「与えるか、与えないか」も、自分で選択できる。
そういう世界の方が、ぼくは作りたいし、維持したい。

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