Archive for 2019.4

立派なことは何もない方が健全だ。

2019.4.15

色んな経営者と会っていて、みんなが口を揃えて同じことを話す。
「自分の事業はこんなに素晴らしい」と。
けれど、誰かが言った、「会社は社会の公器である」と。
法人のはじまりを考えたら、公益しかないわけなんで、こんなのは当たり前のこと。
だから、ぼくが自分の事業に対して考えていることは、「会社の事業は社会の役に立っていないのではないか?」や「そんなに大したことはないんじゃないか?」ということだ。
法人という形態をとらず、個人事業であるぼくでさえこういうことは日々考える。
 
ほとんどの事業は、次の時代に入れば、同じ形では残らない。
だから、人としての機能を持っている法人は残っても、経営者である個人は入れ替わり、事業の形は変わる。
これが、法人だ。
しかし、自らのことを立派だと、社会に貢献していると思っている人が変わり続けるのは難しい。
そして、最終的にロクなことにならない。
(飛行機の中で観た『検察側の罪人』は、まさにそんな映画だった)
 
昔の人は自分自身のことを「大したことはしていないんですけどね」と、相手を油断させる言葉を使っていた。
油断まではいかないとしても、クリエイティブなんてことは、何でも願いの叶う魔法でもないし、どんな傷も治る万能薬ではないと、つねづね言っている。
ただ、多くの企業がクリエイティブを間違った使い方をしているので、適切な使い方を教えたり、作って見せているだけだ。
すると、魔法のように見えてしまう、ただこれだけのこと。
現代では、願いの叶う魔法や万能薬を追い求めている風潮だし、ビジネス書もそんな書き方になってしまっているが、ちゃんと、タネも仕掛けもあるのが、人の仕事だ。
 
「貢献はしたいけれど、貢献なんてしてないんじゃないか」と考えること。
こうやって、ようやく事業は続いていく。

バリ島ウブドで学んだこと。パート6。

2019.4.14

考えごとをしていると、最近はバリのことを考えるようになっています。
これは連日ブログにも書いているから、みなさんも「十分わかったよ」と言いたくなっているかもしれませんが、書く以上に、考えちゃってしまうのです。
まだ意識に上っていないけれど、確実に感じていた些細なことがあるんじゃないかと、自分の記憶と感覚を手繰り寄せています。
 
本当に些細なことかもしれないけれど、「『ミネラルウォーター』って言った方が伝わるじゃん」ということ。
学生の頃、和製英語と習った「ミネラルウォーター」だったと思っていたのですが、バリでは伝わるんですよね。
むしろ、「ボトルドウォーター」や「ボトルウォーター」だと伝わらない。
今回で3度目の海外で、初めて感じたということは、バリならではだったのかもしれませんし、その逆もあるかもしれません(ちなみに他に行った国は、台湾とアメリカ)。
 
話は変わりますが、バリの経済発展やホスピタリティについて調べていると、一朝一夕のことではないんですよね。
当たり前な話ですが、感動する側は感動したことが当たり前だと錯覚しています。
錯覚させることが、サービスを提供するものの役目とも言えます。
マジシャンとか、すごいですもんね。
 
ただ、マジシャンも練習をするように、相手を感動させるサービスを提供するには、一朝一夕ではできないわけです。
しかも、空港や送迎やホテルやレストランやガイドなど、様々な場所で、様々な人たちから感動をもらうのだから、一定水準で学べるところがないと、質は保てないでしょう。
そうしたら、国立観光大学があるんですよねー。
もうね、開いた口が塞がらないです。
 
日本はなんでも自分たちでやろうとするけれど、学ぶこと、提供することも、体系立てることに負けちゃっていますよね。
日本のホテルで感動したことがないからなんとも言えないですが、教える人がいないのか。
 
卵が先か、鶏が先か。
でも、できないし、ないのなら、学びに行けばいいんですよね。
卵と鶏を両方手に入れることもいいですし、親子丼をつくるのだっていいでしょう。
これが、クリエイティブの面白いところでもあります。

バリ島ウブドで学んだこと。パート5。

2019.4.13

金曜日は、毎月恒例の根津神社へのお参りに行っていました。
そうしたら、毎年恒例のつつじ祭りが開催されていて、ちょっと早い気もするけれど、つつじが綺麗に咲いていました。
 
「毎月お参りに行く」ということも、信仰の表れでしょう。
「歴史を引き受ける」という姿勢のもと、仕事をしているのも、一種の信仰でしょう。
歴史上の先達に見られている感覚があるというのも、信仰と言えるでしょう。
人はそれを「神」とか「もう一人の自分」とも言いますが、これと同じです。
こういう人は、同じように信仰を持っているんだと思います。
 
ひとつ気をつけたいのが、「信仰を持っている」から特段に優れているわけではないということです。
バリでガイドをしてくれたアディさんが、いいことを話してくれましたが、彼らがバリの占いを信じるのは、バリの占い師を信じているから。
毎朝、お供え物をするのも、習慣としてやらないことの方が気持ちが悪いから。
悪魔が悪さをしないようにお供え物をする、ということが染み込んでいて、やらないことの方が気持ち悪くなるから、毎朝お供え物をする。
信仰というのは特殊なことではなく、ほとんど習慣に近いようなことで、信じないことの方が、自分にとって都合が悪いから信じているようなことです。
だから、そうじゃない人が、バリの占いを受けても意味がない、とアディさんは言っていました。
 
これ、本当に「信仰」について的を得た話だなぁ、としみじみ思います。
 
ぼくが仕事で感じている先達の気配も、他の人たちに強要したことはないです。
違うスタンスの人も、もちろんいていいでしょう。
 
信仰とは、特定の宗教に入ることとは違うんだろうな。
バリで毎朝お供え物をしている姿を見かけて、「いいな」と感じるのも、ぼくがバリの信仰を持っていないからなんでしょうね。
これは、ひとつ発見したな。
自分は仕方がなくやってしまったり、感じてしまったりすることを、人はちょっと「いいな」と感じてしまう。
こうやって世界を観察してみると、「あの人の信仰」ということが、わかるような気がします。

バリ島ウブドで学んだこと。パート4。

2019.4.12

昨日の投稿で「体を炒めるかもしれない。」と書いて、改めて読み返してみたら、ちょっとだけ気持ちがラクになりました。
本来は「痛める」なんですけどね、まぁ、これ以上は言う必要がないですね。
 
話は変わり、連日、バリ島でのことを思い返しています。
あのホスピタリティは半端ないな、と。
明細書を見ても細かく単価が書かれているし、待ち合わせ時間には必ず先に到着して待っていてくれる。
もうね、日本人が特長として挙げていた「きっちり」でも、バリに軍配が上がります。
それで、荷物は持ってくれるし、色々と対応もしてくれる。
さらには、笑顔まで溢れて、「ハロ〜」なんて挨拶しちゃう。
これが出来ているから、「サービス料」は当然だと思えるし、「チップ」だって払いたくなります。
 
もうね、たった一週間滞在してただけなのに、帰ってきてからの日本の冷たさに参っています。
心身ともに。
二時間半で出て行かなきゃいけない飲食店なんて、ゆっくり飯も食べれないじゃない。
 
あんまり大きな島でもないのに、どうして、あれだけのサービスとホスピタリティを提供できるのか、日々考えています。
宗教というよりかは、信仰はありそうだな。
ほとんどが飾りである街中の銅像にもお供え物をしていたな。
俺の「歴史を引き受ける」ということも、もしかしたら、信仰なのかもしれないな。
これは、もうしばらく考えることになりそうです。

選べない気候。

2019.4.11

先週は30度の気温で過ごしていたのに、水曜日は7度。
つま先の痛みを感じながら布団から出たり、傘を持つ手がかじかみながら歩いたりしていると、ひとつのことに気がついた。
 
「人は気候のなかで生きている」
 
ひどく当たり前なことだが、ぼくらは生きる気候を選べない。
渡航先を選ぶことで、気候を選んでいるつもりになったとしても、的外れになることもあれば、室内の気候(空調)で真夏でもジャケットが必要になることだってある。
そして、水曜日の寒さで、ぼくはいつも通り、イラついていることにも気づいていた。
寒さは、寒い以外に、余分なことを心配させる。
体を炒めるかもしれない。
食いしばりから肩が凝る。
傘を持つから荷物が増える。
室内に入ったら、コートを脱がないと暑いが、コートは荷物になる。
Tシャツに短パンだった先週とは打って変わって、思考も荷物も増えている。
寒さが直接嫌なのではなく、こういった余分なものが増えるのが嫌いだったのだ。
繊細な人ももちろんいるとは思うが、「暑い地域の人がおおらか」と思われる理由もわかる。
先週の自分が、そうだった。