Archive for 2019

全部趣味 – All works are hobbies.のつづき。

2019.12.6

昨日、「全部趣味 – All works are hobbies.」ということを書きました。
外に向けて言ったのは初めてだったのですが、事あるごとにこのことについて考えていました。
 
「なぜ、仕事で苦しい思いをしなきゃいけないのだろうか」、はじまりはこんなところだった気がします。
「仕事って苦しいもの」という考え方が日本でも否定されるようになってきていますが、まだまだ苦しいものとしての方が常識でしょう。
「今日は会議ばかりなんですよ〜」と、太変さをアピールして忙しさに酔いしれる人も多いですよね。
これらは、昔のぼくの姿でもありました。
今なら「だったら辞めちゃえば?」と言います。
 
好きが高じて、これを仕事にした途端、たくさんの面倒が舞い込んできて、苦しくなる人も多いでしょう。
つまらない人と出会うことが多くなると、何でもつまらないですよね。
これ、もしも「趣味」だったら、辞めちゃうでしょう。
例えば、写真を撮るのが好きなのに、一緒にいる人があーだこーだと言い始めて、つまらない思いを重ねたら、その人と一緒にいるのを辞めたり、写真を撮るのを辞めるでしょう。
 
仕事も家事も、これと同じだと気づいたのです。
 
仕事であれば、つまらない人がお客だったら、その人はお引き取り願って、気持ちよく仕事をすればいいんです。
お客さんが全員つまらなくて、その仕事が嫌いになったのなら、仕事を辞めちゃえばいい。
もうひとつ考え方があって、会計業務とか面倒臭いことも、「会計業務が趣味」だと自分を勘違いさせちゃえば、これはこれでたのしくなっちゃうぞ。
家事だって、別に毎日やる必要はなくて、趣味なんだから気が向いたときにすればいいわけで。
趣味でやっているんだから、誰に何を言われる筋合いもない。
 
結局、忙しそうにしていたり、苦しそうにしている人は、相手につまらない思いをさせる。
たのしそうにしている人は、関わる人をたのしくさせる。
これは趣味でも仕事でも同じだ。
 
子どもの頃、写真をやろうと思わなかったし、デザインのデの字も知らなかった。
やり始めてから、毎日たのしく続けてきたら、人に喜ばれるようになっていただけなんだ。
仕事を趣味にしたんじゃなくて、趣味を趣味のまま仕事にしたんだ。
「全部趣味」、この考え方はもっとたのしくなりそうだ。

全部趣味 – All works are hobbies.

2019.12.5

さて、書くことがないぞ。
仕事をして、散歩して、また仕事して、夕飯つくって、英語の勉強して、また仕事して、お風呂にお湯を入れながら、これを書いています。
仕事ばっかりしていると、書くことは少ないのですが、仕事をしていると、それまで知らなかったことを知ることがあります。
 
今日で言えば、トランペットの形です。
記憶だけでトランペットを描こうとしたら、全く描けないんです。
遠目からのシルエットならごまかして描けるのですが、それをデザインに組み合わせてみると、やっぱりね、そこだけ「いいのか?これで」という甘さがあるんですよ。
そんなの、人は気にしないのは分かっているのですが、作り手にはバレているぞと。
 
それで、夕飯後の英語学習後に、トランペットの形を調べて、マイルス・デイビスが演奏している姿の写真を見ながら、「トランペットが活きている様子」を絵にしていました。
はじめからそうすれば早いのかもしれませんが、でも、結果論から考えると、実はここには辿り着けなかったりするんですよ。
遠回りしてこそ、辿り着ける答えがあるんです。
 
この仕事をしていると、こういうことが多く、その度に知らなかった世界を知ることになり、ぼくの中の世界地図が地殻変動を起こすんです。
些細なことだけれど、この積み重ねがおもろいんだ。
全部趣味だ。
All works are hobbies.

格好いいの種類。

2019.12.4

世の中には、格好いいの種類が変わる人と、変わらない人というのがいます。
種類が変わらない人は、そのまま追い求めるか、格好いいに目を向けなくなります。
学生の頃、「モテたい」と思ったことのある人が、いつの間にか思わないようにするのが、「見なくなる」です。
モテたいだと想像できなければ、「好きな子と仲良くなりたい」と思ったことがあると考えてください。
それすら思わなくなるというのが、「格好いいを見なくなる」です。
 
そうではなく、格好いいの種類が変わらずに追い求めるというのは、子どもの頃に憧れた「格好いい」のままです。
子どもの頃に憧れた格好いいの種類は、数が限られているので、大人になった人たちがそのままだと、周囲の大人たちに見透かされます。
 
そこで今日の本題です。
格好いいの種類が変わった人たちって、大人が憧れるんですよね。
実際にぼくも憧れる人というのが変わりました。
例えば、子どもの頃にコンドルのジョーに憧れていたとしても、徐々に、ルパン三世に憧れるようになったり。
『ワンピース』に登場する格好いい人たちも、全員、抜けているところがあって、そこで「笑わせて」くれます。
『ドラゴンボール』の孫悟空も、嫁さんには頭が上がらなかったり、働かなかったり、親としては、ライバルであるベジータの方が立派に描かれていたりします。
 
さて、ここまでで気づくかも知れませんが、人を笑わせることを格好いいと思えるかどうかが、大人の格好いいの変わり目な気がするのです。
その笑わせ方も、自分を下げることで、周囲を和ませるやり方です。
だから、ここに挙げた人たちって、他の登場人物からツッこまれているんですよね。
 
ここに書いた人たちというのは漫画のキャラクターだから、天然かもしれませんが、読者や視聴者を惹き寄せる「笑わせる格好よさ」を現実でやろうとしたら、意識的にならざるを得ません。
しかも、人を「おぉー」と言わせる何かも発揮できなきゃ、いけませんし。
抜けてるところも見せながら、しっかりしたところも見せるって、相反することで不可能に思えますが、だからこそ、憧れるんですよねー。
昔は思わなかったけれど、今はそういう人を格好いいと思います。

苦手を通り越して。

2019.12.3

この季節になると毎年書いている気もしますが、ぼくは寒いのが嫌いです。
苦手を通り越して、嫌いなのです。
寒さで手足の指がかじかむことも、肌が敏感になることも、筋肉が固まって痛めやすくなることも、体が震えることも、喉を痛めやすくなるのも、すべて嫌いです。
大学の頃、雪国の無人駅のプレハブ小屋で一夜を過ごしたときの、寒さで眠りにつくことができなかったこと。
雪道を10km以上も歩いたこと。
本当に、すべてが寒かった。
その後、歳を重ね、筋肉を痛めやすくなってからというものの、さらに寒さが嫌いになりました。
だから、寒い地域に住むことは、ぼくにはできません。
 
こういう話をすると、対策をすれば寒さも平気と言う人がいますが、それは寒さが平気な人なのです。
暑いや寒いというのは、ほとんどの人が感じる感覚です。
それを得意とするか、苦手とするかは人それぞれです。
さらに、好きか嫌いかも、それぞれです。
苦手だけど、まぁ、平気という人。
そういう人が、対策をすれば平気という人です。
けれど、ぼくは「嫌い」なのです。
寒さに加えて雨も降って、雪も降って、日光が射さない日なんて、ぼくにとって最悪です。
この世の終わりかよ。
ジーザス、オーマイガッ!
 
季節性のうつ病があると言われているけれど、いっそのこと抗うつ剤が欲しいほどです。
調べてみると、これになると食欲が増進されるらしく、「食欲の秋」ってまさにそれじゃん、とさえ思ってしまいます。
正月にぶくぶく太るのも、もしかしたらそれかもしれない(いや違うか)。
とりあえず、季節性のうつに効くらしい、ビタミンDを摂取すべく、昼飯から鍋にして鮭やらきのこやら、全部食っちまうぜ。
さらに、ベイクドポテトも作って、脳味噌を快楽に導いてやるぜ。
焼きリンゴも作って、ジャム入りヨーグルトに、熱いお茶を飲みながらアイスも食っちまうぜ。

小学校のような大人のクラス。

2019.12.2

昨日の続きになってしまうけれど、「励まし」って、いくつになっても嬉しいものだと知りました。
「年齢を重ねると叱られなくなる」とはよく言われるけれど、励ましてもらうこともなくなります。
「君ならできるよ」と若手を励ますことはあっても、ぼく自身が言われたことは、記憶にはないです。
だから、自分で自分に向かって言うんですけど。
 
けれど、英語の授業を通して、先生はぼくらを励まし続けてくれました。
発音とか、理解力とか、ことあるごとに改善されていると褒めてくれて、そして、最後の授業ではどんどんチャレンジしなさいと。
実際に、期間中にドイツに行って、過去に海外に行っていたときよりも、ビビらなかったし、会話ができていました。
大事なのは、ちょっとのことだったのです。
もちろん、今も色々間違えてしまいますが、それでも、誰もいない部屋で自主的に英語の勉強をしているのだから、先生が励ましてくれたことは影響が大きいです。
コースが終了して、「ロス」を感じながら考えていたのが、励ましって嬉しいものだよな、ということ。
 
あとは、小学校のクラスに近いものがあったんですよね。
全員わからない言語(英語)を、言葉として覚えていく。
ひとりがわからなければ、みんなで助ける。
徐々に打ち解けていって、仲良くなっていく。
違うのは、最後の授業で、ぼくらはバラバラになること。
もしかしたら、次のコースで会うかもしれないけれど、それはわからない。
 
その出会いは、小学校時代のクラスメイトを思い出しました。
この英語のクラスは常に協力し合う、とても雰囲気のいいクラスでした。
 
普段の仕事で出会う人たちとも協力します。
けれど、その協力には、「利益を上げる」というたった一つの目的があるんですよね。
「自分のため」とか「社会貢献のため」とか様々な目的が集まると、仕事でのチームというのはうまく機能しません。
目的が違うと、協業した後の理想の世界の姿が違うから、協力ではなく、利用に近くなってしまうのです。
だから、「その事業の利益を上げる」という共通の目的を持つ必要があります。
 
でも、クラスに集まった人たちには、様々な目的がありました。
みんな職種も違うし、年齢もバラバラ、もう現役を引退している人だっている。
それにも関わらず、不慣れな言語を相手に、みんなで協力して、助けたり、助けられたり、笑ったり、失敗して「てへぺろ」のような雰囲気になるんです。
その中心に、みんなを励まし、勇気づけてくれる先生がいます。
 
人を助けることも、助けられることも経験しながら、励まされて、言葉を覚えていく。
乳幼児とも違う、思春期とも違う、会社のようにマウントも必要ない、小学生のような大人たちが英語を学んだのです。
バラバラになるのはちょっと切ないけれど、ここでの経験は、ぼくにとって、大きなものです。